明治期から148年の歴史を刻んだ「旧渋沢邸」が青森から東京・江東区に里帰り―壁や調度まで克明に再現した内部の写真もたっぷり

AI要約

渋沢栄一の自邸である旧渋沢邸が江東区に帰還し、新たな拠点として再築された。

渋沢栄一の生涯や功績、その波乱に満ちた人生を振り返りながら、新しい時代における彼の精神を伝え続ける場として機能する。

渋沢栄一の遍歴や建物の移築歴、そして現代における意義について紹介。

明治期から148年の歴史を刻んだ「旧渋沢邸」が青森から東京・江東区に里帰り―壁や調度まで克明に再現した内部の写真もたっぷり

土師野 幸徳(ニッポンドットコム)

近代日本経済の礎を築き、新1万円札の肖像となった渋沢栄一。働き盛りの30代後半、東京・深川(現・江東区)に建てた自邸は、息子や孫、ひ孫と4代が暮らした。平成初期に青森へ移築されていたが、令和になって江東区に帰還。清水建設のイノベーション拠点「温故創新の森 NOVARE(ノヴァーレ)」の中心で、改革者の精神を伝えていく。

JR京葉線・潮見駅の東口を出ると、曙北運河までの約250メートルに洗練された現代建築が並んでいる。ゼネコン大手の清水建設が、約500億円を投じたイノベーションと人材育成の拠点「温故創新の森 NOVARE」(江東区潮見)だ。建物沿いを運河に向かって歩くと、中庭部分に和洋折衷の立派な邸宅が現れる。一見、周りの建造物と似つかわしくないように思えるが、しばらく眺めていると調和していくのが不思議だ。

この歴史を感じさせる重厚な建物は「旧渋沢邸」。そう、「日本資本主義の父」と呼ばれ、新1万円札の顔となった渋沢栄一(1840-1931)が暮らした家である。元々は1878(明治11)年、深川福住町(現・江東区永代2丁目)で建造された日本家屋だった。1888年に栄一が日本橋兜町に転居してからは、長男の篤二(とくじ)や、孫で渋沢家の跡継ぎ・敬三の住居に。1908年に港区三田に移設した後、大規模な増改築によって和洋折衷の建造物となった。

戦後、財産税として物納。大蔵大臣公邸や省庁の共用会議所として使用したが、民間に払い下げられ、1991年に青森県六戸町に移築。2018年に清水建設が譲り受け、2年後に潮見で再築を開始した。2023年に工事が完了したので、旧渋沢邸が江東区へ里帰りしたのは115年ぶりということになる。その長い物語の一端を紹介したい。

渋沢栄一は1840(天保11)年、現在の埼玉県深谷市血洗島に生まれた。豪農の跡取りとして裕福な暮らしであったが、21歳ごろに江戸に出て剣術や学問の塾に通い始めてから、流浪の生活を送ることになる。

次第に尊王攘夷(じょうい)運動に傾倒した栄一は、外国人居留地の焼き打ちを企てたことで幕府に追われ、1863年に京都へと逃げる。縁あって一橋徳川家に拾われて庇護(ひご)を受けると、1867年に主人の一橋慶喜が徳川宗家を継ぐことになり、今度は幕臣となった。同年、慶喜の弟・昭武に随行してフランスへ。欧州視察中に徳川幕府は終焉(しゅうえん)を迎え、1868(明治元年)年に帰国。一橋家の領地・駿府(現・静岡県)に一時住むが、留学経験と高い能力を買われ、すぐに東京の明治新政府から招かれるのであった。

幕府を倒して、外国人を追い出そうとしていたのに、幕臣となって外国で学び、帰ってくると主君の敵方だった新政府へ―。目まぐるしく思想や立場、環境が変化した20代、当然一つ所にとどまることはなかった。明治政府でも、近代日本の仕組み作りに追われる毎日。そんな渋沢が実業家になり、初めて建てた深川の家は、成人してからようやくたどり着いた安息の地といえる。