NHK大河の道長像はリアルとはいえない…道長がまだ幼い長女を一条天皇に入内させた本当の理由

AI要約
藤原道長は自身と家の繁栄のため手段を選ばない人物であり、彼にとっては娘も権力のためのコマだった。安倍晴明は「よいもの」「お宝」を用いて災いを取り除く方法を提案し、道長は娘を差し出すことで権力を固めようとしていた。一条天皇は男子を望んでおり、彰子と定子の立場が入れ替わることで事件が進展していく。

藤原道長とはどんな人物だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「自分自身とその家の繁栄のためなら手段を選ばない人物だった。自分の娘であっても彼にとっては『権力を握るためのコマ』だった」という――。

■安倍晴明が発した「よいもの」「お宝」の意味

 一条天皇(塩野瑛久)の身勝手な行動が目に余るようになってきた。NHK大河ドラマ「光る君へ」である。第25回「決意」(6月23日放送)では、一条は寵愛する中宮定子(高畑充希)がいる「職の御曹司」に入り浸って、藤原道長(柄本佑)が進言しても政務を顧みず、そうこうするうちに、鴨川の堤が決壊して人的被害が出る始末だった。

 時は長徳4年(998)。少し前の場面で、陰陽師の安倍晴明(ユースケ・サンタマリア)が一条天皇に新年のあいさつをし、その際、道長に気になることを告げていた。「災いの根本を取り除かねば、なにをやっても無駄にございます」「帝をいさめ奉り、国が傾くことを防げるお方は、左大臣様しかおられませぬ」「よいものをお持ちではございませぬか。お宝をお使いなされませ」。

 晴明のいう「災い」のひとつが、鴨川の堤の決壊だというわけだが、気になるのは「よいもの」「お宝」とはなにか、であろう。それは6月30日放送の第26回「いけにえの姫」で明らかになる。

 都は洪水に続いて大地震に襲われる。そこで安倍晴明は、今度は具体的に説く。続く天変地異を収めるためには、道長の長女である彰子(見上愛)を一条天皇のもとに入内させるしかない、と進言するのである。

■道長は「立派な人」として描かれているが

 「光る君へ」では、道長は政権のトップの座に就いて以降も、相変わらず「立派な人」として描かれている。そして、脚本家は当面、その路線を維持するつもりなのだろう。道長は天変地異を収束させるための「いけにえ」として、愛する長女をやむなく、一条天皇のもとに差し出す――。そんなふうに描写されるようだ。

 だが、道長が彰子を差し出そうと考えたのは、天変地異云々が原因ではない。あくまでも自分のためであり、家のためであった。

 一条天皇は、「光る君へ」で描かれているように、定子を寵愛していた。しかし、それは当時の宮廷社会においては、きわめて常識外れのことだった。定子の父の藤原道隆は、関白にまで上り詰めたとはいえ、すでに病死していた。兄弟も流罪となり、赦免されて都に戻ったものの、かつてのような地位にはなかった。

 つまり、定子には後ろ盾がなく、そのうえ彼女自身が出家してしまっていた。出家した以上、一条天皇とは離別したものとみなされるのが当時の常識で、すでに定子は一条天皇が目を向けるべき対象ではなくなっていた。

 ところが、一条天皇は常識などお構いなしに、定子を寵愛し続けたのである。長徳3年(997)6月には、定子を内裏に近接した職の御曹司に戻していた。

 もし、このまま一条天皇が定子に皇子を産ませれば、皇子の外戚になる甥の伊周や隆家が権勢を取り戻し、自分は追い払われてしまうかもしれない――。道長はそんな焦りに駆られたと思われる。だから、彰子の入内を急いだのである。

■一条天皇の焦り

 永延2年(988)に生まれた彰子は、道長が、「光る君へ」で黒木華が演じる正室の源倫子とのあいだにもうけた第一子であった。

 「光る君へ」の第25回では、道長が一条天皇に辞表を提出したが、これは長徳4年(998)3月のこと。年が明けて長保元年(999)になると、道長は2月に、数え12歳(満年齢は10歳)にすぎない彰子の裳着(女子の成人式)を行った。

 むろん、そのスケジュールは事前に組まれていただろう。そして、彰子の裳着が、彼女を入内させるための準備であることは、だれの目にも明らかだった。一条天皇とすれば、最高権力者である道長の娘が入内すれば、尊重しないわけにはいかない。とはいえ、数え12歳の少女が懐妊し、出産するとは思えない。

 この時点で一条天皇には、まだ皇子がいなかった。従兄で春宮(皇太子)の居貞親王(のちの三条天皇)には、すでに皇子がおり、このまま自分に男子が生まれないままだと、自分の皇統は途絶えてしまいかねない――。それが一条天皇の立場だった。

 男子がほしい一条天皇だが、近く入内するであろう彰子には、まだ懐妊する力がない。一方、貞観元年(976)の生まれで、彰子より一回り年長の定子は非常にいとおしい。彼女は貴族社会からは総スカン状態だったが、女子を産んだ実績はある。

 一条天皇なりに逡巡したと思われるが、結局、彰子の裳着が行われる前後に、定子を一時的に内裏に戻した。むろん、目的は「妊活」だったと思われる。人目を忍んで職の御曹司に通うだけでは、十分な「妊活」はできなかったということだろう。