どうして「あの時に」...一流の翻訳家が大先輩に対して「守秘義務」を優先した「矜持」とその「悲しい結末」

AI要約

出版翻訳者の仕事を紹介する連載記事『「スティーブ・ジョブズ」翻訳者の仕事部屋』から抜粋。山岡洋一さんからの依頼により、翻訳業界の話や『翻訳とは何か』などを振り返る。

山岡さんの翻訳における姿勢や真摯さ、編集に対する厳しさが語られる。完成度の高い訳稿を提出する姿勢についても触れられている。

出版翻訳業界でのつながりや山岡さん主催のノンフィクション出版翻訳忘年会に参加することで、翻訳者としてのキャリアや仕事の幅を広げた経験についても述べられている。

どうして「あの時に」...一流の翻訳家が大先輩に対して「守秘義務」を優先した「矜持」とその「悲しい結末」

 小説家、漫画家、編集者、出版業界の「仕事の舞台裏」は数あれど、意外と知られていない出版翻訳者の仕事を大公開。『スティーブ・ジョブズ』の世界同時発売を手掛けた超売れっ子は、刊行までわずか4ヵ月という無理ゲーにどうこたえたのか? 『「スティーブ・ジョブズ」翻訳者の仕事部屋』(井口耕二著)から内容を抜粋してお届けする。

 『「スティーブ・ジョブズ」翻訳者の仕事部屋』連載第7回

 『「コンピュータ」か「コンピューター」か...翻訳者を翻弄する、出版業界の「ややこし過ぎる表記ルール」』より続く

 8月の10日ごろ、山岡洋一さんから電話をいただきました。翻訳業界を震撼させた大事件が少し前に起きたことをうけ、ニュースレターの『翻訳通信』で機械翻訳を取り上げたい、記事を書いてくれという話でした。すぐは難しいとお伝えしたら、あまり遅くならなければいいとのこと。

 でしたら書かせていただきますと、なんだかんだ、1時間くらいはお話ししたでしょう。年も取ってきたし、このごろ仕事は減らしている。これからは古典の翻訳を中心に取り組みたい。そんなお話もありました。

 公認伝記『スティーブ・ジョブズ』の翻訳をしているところだという話はしませんでした。一応、秘密にしろと言われていましたし、終わったところで本を持ってご挨拶にうかがおうと思ったのです。

 山岡さんはビジネス書の翻訳で知られる大先輩で、その山岡さんのご紹介で『偶像復活』を訳したことが、私が出版翻訳をするようになったきっかけだったりします。

 山岡さんは出版翻訳を中心に業界をよくしていこうという活動もずいぶんとされていました。山岡さんが書かれた『翻訳とは何か:職業としての翻訳』(日外アソシエーツ、以下『翻訳とは何か』)は、我々翻訳者にとって読むと思わず背筋が伸びるバイブル的な書ですし、毎年年末には、山岡さんの呼びかけで始まったノンフィクション出版翻訳忘年会というものが開かれています。

 ノンフィクションの出版翻訳に携わっている翻訳者、編集者、版権エージェントなどが一堂に会し、横のつながりを作る貴重な場です。私も、新しい編集さんと知り合って仕事をいただくなど、ずいぶんとお世話になりました。

 実際にお目にかかってお話しすると、はにかんだような笑顔と話し方が印象に残ります。ただ、内容は鋭いし、翻訳に対する真摯な姿勢が強烈に伝わってきます。『翻訳とは何か』を読むと、山岡さんは怖い人だなぁという印象を受けるのは、この部分が前面に出ているからです。

 「オレの訳稿は誤字・脱字はもちろん、表記などもすべてきちんと整えて出している。校正ゲラもなしにそのまま印刷してかまわない完成原稿なんだ。そう言ってあるのに、いろいろ勝手にいじくり回すところが多くて……」

 と言われるのも何度か聞いたことがあります。それから10年あまりたっていますが、私は、いまだにそこまでの境地にはいたっていません。私も、プロ翻訳者の中でかなり細かく注意を払っているほうだし、原稿の完成度も高いはずだと自負していますし、編集さんからもそのようなことを言われたりするのですが、それでもなお、です。