AI向けデータセンターをつくる!で株価下落…投資家が見抜いた「シャープの根本的な病」

AI要約

シャープが堺工場の稼働停止を発表し、データセンターへの転用を計画している。堺工場の歴史は産業構造の変化を物語り、シャープの成長戦略転換の必要性を考えさせる。

堺製鉄所は鉄鋼業から電機産業、そして最近はデータセンターへと役割を変えている過程が振り返られる。日本の鉄鋼業の国際競争力の向上に寄与した過去から、中国勢のシェアが拡大する現在までを考察したシャープの経緯が明らかにされている。

世界経済の構造変化が急速に進む中、シャープは迅速な経営資源の再配分が求められる状況にある。テレビ用液晶パネルの価格競争で生じた赤字拡大から脱するため、中小型パネル事業でリストラを行い、成長戦略の見直しが重要視されている。

AI向けデータセンターをつくる!で株価下落…投資家が見抜いた「シャープの根本的な病」

 シャープが堺工場の稼働を停止し、データセンターへの転用を目指すという。しかし、その実効性は透明だ。液晶分野からの撤退は表明しなかった。中小型の液晶パネル事業でリストラを実行し、赤字の縮小を目指すという。まだシャープの先行きを懸念する声が多いのはなぜか。(多摩大学特別招聘教授 真壁昭夫)

● 鉄鋼→液晶パネル→データセンター? 大阪・堺工場の栄枯盛衰

 5月14日、台湾の鴻海(ホンハイ)精密工業傘下のシャープは、大阪府にある堺工場の稼働停止を発表した。この工場は、テレビ向け大型パネルの最新鋭工場として設立されたが競争激化に勝てず、今秋に生産を停止しデータセンターへの転用を計画している。

 実は、堺工場の役割が変化するのは今回が初めてではない。わが国の高度成長期、堺工場の地では八幡製鉄(現日本製鉄)が製鉄所を運営していた。1990年初めのバブル崩壊などで鉄鋼業界の国際競争力が低下し、八幡製鉄は合併を重ね現在の日本製鉄になった。それに伴い、堺製鉄所は役割を終えたのだ。

 その後2007年、シャープが堺製鉄所の用地を取得したことで、製鉄所が大型液晶パネル工場に変わった。そのわずか数年後、リーマン・ショックが発生して世界中が不況に陥った。一方で中国のパネル産業は政府の支援もあり、急速に競争力を高めた。しかし、シャープの液晶事業は競争力を失った。堺工場の歴史は、世界の産業構造の変化を物語っている。

 結果的に、シャープは成長戦略を転換することができなかった。今後、AI分野の成長が加速するなど、世界経済の構造変化のスピードは加速するだろう。企業は、迅速に経営資源を再配分することができるか、これまで以上に具体的なビジョンを持つことに迫られている。シャープの栄枯盛衰は、他社にとっても決して他人事ではない。

● シャープ「亀山モデル」はなぜ凋落? 2023年、中国勢のシェアは…

 堺工場の役割は、鉄鋼から電機産業、そしてデータセンターへ変わろうとしている。まさに、産業構造の変化と同調してシフトしていく。その歴史を振り返ってみよう。

 1950年代の半ばから70年代の高度成長期、わが国の石油化学、機械、造船など重化学工業が発展し、鉄鋼需要も伸びた。旧八幡製鉄所の堺製鉄所が建設され、65年に堺製鉄所の第1高炉、67年に第2高炉に火が入った。製鉄所の生産能力拡大は、わが国鉄鋼業の国際競争力の向上に寄与した。

 しかし、70年代以降、鉄鋼業界の事業環境は段階的に厳しさを増していった。73年、第1次オイルショックが発生し、原油価格は上昇した。85年、プラザ合意が成立すると為替市場で円高が進行した。中国や韓国、インドなどの鉄鋼メーカーが成長する一方、わが国鉄鋼メーカーの国際競争力は低下した。

 そうして90年、堺製鉄所の高炉は休止した。鉄鋼メーカー大手は経営統合を進め、リストラを強化。ハイブリッド車(HV)や電気自動車(EV)などに用いられる高付加価値製品の生産技術を磨き、生き残りを図った。

 片や、産業構造の変化はシャープの堺工場にも鮮明に見られる。2007年にシャープが堺製鉄所の跡地を取得し、リーマン・ショック後の09年から堺工場を稼働。04年に生産が始まった「亀山モデル」で、薄型テレビのトップシェアを手に入れた同社は、堺工場建設で事業規模の拡大を目指した。

 ところが、堺工場の稼働後、リーマンショックもあってシャープの業況は急速に悪化した。韓国、台湾に続き中国勢も日本から製造技術を吸収した影響もあるだろう。中国政府は、京東方科技集団(BOE)などに補助金や土地を供与した。中国勢が価格競争力を付けたことで、シャープの優位性は低下した。

 その後23年、世界のテレビ用液晶パネル市場で、中国のBOE、華星光電(CSOT)、恵科電子(HKC)の3社が計65%のシェアを握っている。価格競争は激化し、シャープは生産すればするほど赤字が拡大する状況に陥った。こうして堺工場の大型パネル生産は幕を下ろすことになった。