「民間にまかせればうまくいく」のか?日本も陥っている「新自由主義」「ネオリベ」の罠

AI要約

「クソどうでもいい仕事(ブルシット・ジョブ)」はなぜエッセンシャル・ワークよりも給料がいいのか? その背景にはわたしたちの労働観が関係していた?

BSJ論をかこむ時代的・社会的文脈について、ネオリベラリズム、そして官僚制に焦点をあてる。

日本でも1980年代から浸透し、2000年代に全面展開をみせたネオリベラリズムについて解説。

「民間にまかせればうまくいく」のか?日本も陥っている「新自由主義」「ネオリベ」の罠

「クソどうでもいい仕事(ブルシット・ジョブ)」はなぜエッセンシャル・ワークよりも給料がいいのか? その背景にはわたしたちの労働観が関係していた?ロングセラー『ブルシット・ジョブの謎』が明らかにする世界的現象の謎とは?

ここでは、このBSJ論をかこむ時代的・社会的文脈について、お話をしてみたいとおもいます。それはネオリベラリズム、そして官僚制です。

みなさんも、ネオリベラリズムって耳にしたことがあるでしょう。「新自由主義」といわれることもありますし、「ネオリベ」と略されることもあります。お役所仕事は不効率でありすぐにばらまきに走って赤字を生む。それを「民間」にまかせればうまくいく。「民間」は市場原理によって動いており、ムダや不効率は削減されるからだ、といった大筋ではそんな発想です。

ある時期から、政治家が国公立大学はもちろん、足下のお役所になにか問題があれば、「そんな発想では民間では通用しない」と「民間」をそれこそ印籠のように掲げては、それにわたしたちをひれ伏せさせるといった光景まであらわれるようになりました。

このイデオロギーは、日本でも1980年代から浸透をはじめ、2000年代に全面展開をみせるようになりました。1980年代には、日本では、「レーガン、サッチャー、中曽根」と当時のそれぞれ、アメリカ、イギリス、日本の大統領や首相が並べられ、ネオリベラリズムの急先鋒とされていました。

かれらは「規制緩和」「自由化」そして「自己責任」といった言葉を掲げ、市場原理ないし「民間活力」の導入といった名目で、それまで国や自治体にゆだねられていた経営体や組織を解体し、再編成していきました。

BSJ論は、ある意味ではこの「ネオリベラリズム」現象に、独特の視角から照明をあてるものでもあります。

実際、序章の終わりで、2013年の小論の意図をこうグレーバーは説明しています。

「……その小論はまさに、当時のわたしが発展させていた一連の議論のひとつだったのである。レーガンとサッチャーの時代より世界を支配してきたネオリベラリズム(「自由市場」)のイデオロギーは、それが主張するものとは真逆のものであるという議論である。つまり、それは実際には、経済的プロジェクトに粉飾された政治的プロジェクトだったのである」(BSJ 13)

だから、小論ではその政治的含意を強調した、本のほうでは、もう少し体系的に展開するのだ、といっています。

BSJ論を理解するためにひとつもっておかねばならない構図は、いま本当であれば──つまり技術的発展やそれによる「経済」の「生産性」の向上といった条件にのみ限定するならば──ケインズの予言はあたっていてもおかしくないはずだ、というものです。ということは、なにかそれを実現させない、外的制約がかかっているということです。