「先端的経営」をアピールする大学で「クソどうでもいい仕事」が増える「納得すぎる理由」

AI要約

「クソどうでもいい仕事(ブルシット・ジョブ)」はなぜエッセンシャル・ワークよりも給料がいいのか? その背景にはわたしたちの労働観が関係していた?ロングセラー『ブルシット・ジョブの謎』が明らかにする世界的現象の謎とは?

みなさんも、ネオリベラリズムって耳にしたことがあるでしょう。

「新自由主義」といわれることもありますし、「ネオリベ」と略されることもあります。お役所仕事は不効率でありすぐにばらまきに走って赤字を生む。

「先端的経営」をアピールする大学で「クソどうでもいい仕事」が増える「納得すぎる理由」

「クソどうでもいい仕事(ブルシット・ジョブ)」はなぜエッセンシャル・ワークよりも給料がいいのか? その背景にはわたしたちの労働観が関係していた?ロングセラー『ブルシット・ジョブの謎』が明らかにする世界的現象の謎とは?

みなさんも、ネオリベラリズムって耳にしたことがあるでしょう。

「新自由主義」といわれることもありますし、「ネオリベ」と略されることもあります。お役所仕事は不効率でありすぐにばらまきに走って赤字を生む。

それを「民間」にまかせればうまくいく。「民間」は市場原理によって動いており、ムダや不効率は削減されるからだ、といった大筋ではそんな発想です。

さて、この「ネオリベラリズム」という発想と日本の「大学」についてひとつの視角をここで提出したいとおもいます。それは官僚制、官僚主義という問題の視角です。

ネオリベラリズム改革という視角から日本の現象をみるときに、官僚制というフレームからそれを把握するというものはあまりみません。

というのも、ネオリベラリズムは官僚制と敵対的である、あるいは少なくともネオリベラリズムの促進する市場原理は官僚制とは相容れないという強固な常識が存在しているからです。

ところが、実態としては、日本において大学改革で問題視されていることのほとんどは官僚制の問題です。上からの統制、管理の強化、ペーパーワークの増大、そして忖度、服従と面従腹背などです。そして、これは世界でも変わるところはありません。

ところが、ネオリベラリズムがそれを促進しているところのリベラリズム総体に共通する「常識」、すなわち市場と官僚(そして国家)を対立したものとみなす常識が根深いと、このような市場原理が許容しないような現象、すなわち効率性とはかけ離れた手段の目的化といった「倒錯」の現象が、「市場原理主義」を掲げるネオリベラリズムのもとでは「本来ありえないはず」となり、その延長上でそれが日本独特の問題のようにみえてしまうのです。