パリで2回目の五輪 前回100年前の開催時も円安対策で苦しんだ日本 元祖“口先介入”で投機筋に対抗

AI要約

パリオリンピックが始まり、日本勢の活躍を期待するが、円安ユーロ高で現地への声援が遠慮される状況。

100年前のパリオリンピックでは、日本勢が唯一の銅メダルを獲得し、レスリング選手の内藤選手が謝罪的なコメントを残したエピソードもあった。

当時の円安問題もあり、政府が1ドル=2.1円の死守を目指し無制限介入を行うが、結局円相場は急落し介入が断念された。

パリで2回目の五輪 前回100年前の開催時も円安対策で苦しんだ日本 元祖“口先介入”で投機筋に対抗

パリオリンピックが始まった。日本勢の活躍を大いに期待したい。

できれば現地へ声援を送りに行きたいところだが、あまりの円安ユーロ高の現状にちゅうちょしてしまう人もいるだろう。

パリでのオリンピック開催は2回目。前回は実に100年前の1924年(大正13年)だった。このとき日本勢は唯一となる銅メダルを獲得している。

まだラジオ放送もなかったが、さぞや新聞紙面で盛り上がったはず…と思いきや、銅メダル(3位)の扱いは社会面左下に2段見出し。隣の「腰巻きを盗む賊、押し入れの中に百数十枚」という中野署の事件より少し目立つくらいだ。

陸上や水泳などに比べてレスリングという競技になじみが薄かったこともあったにせよ、わざわざ現地特派員が出した記事にしてはあまりにも小さい。

しかも当時の報道では、メダル獲得の大奮闘をしたはずの内藤克俊選手が試合後の控室で汗だくになりながら「期待に沿わないで残念でした。近く米国へ帰ります」と語ったという。

レスリングに対してはオリンピック競技に入っていなかった柔道界からの視線があったとされる。主にアメリカで活動していた内藤選手は準決勝で敗れて金メダルを取れなかったことで、日本国内に向け“謝罪”する事態になったのである。

このような風潮が100年後の今も脈々と続いている気がするのは私だけだろうか。

その100年前のパリオリンピックの年=1924年、日本国内で大きな問題となっていたのが実はことしと同じ「円安」である。

政府(清浦内閣)は年初に1ドル=2.1円死守の方針を決め、無制限の円買い・ドル売り介入で支え続けた。しかし巨額の為替介入にもかかわらず、3月には1ドル=2.4円まで急落するのである。

こうなると当時も今も対策会議だ。政府は1924年3月14日、大蔵省と日銀の幹部が円安問題で協議を開いた。協議は午後5時から午後11時半まで及んだ。

しかし介入のための資金(外貨準備に相当)に余裕がなくなったことから、結局、市場介入による為替相場の維持を断念した。

介入がなくなった円相場は変動相場で“つるべ落とし”のように下落する。

円安の要因は前年に起きた関東大震災で生じた輸出不振と復興資材の輸入急増による大幅な貿易赤字で、さらに金本位制復帰への遅れもあったとされる。

しかしそれだけではなかった。