【中年の日常エッセイ】年をとると「不要な存在感」が否応なく増している。こんなつもりじゃなかったのに。

AI要約

phaさんは20代から30代にかけて定職に就かず、友人の家やシェアハウスを転々とする生活を送っていた。しかし、40代になった今、そうした生活にはもう魅力を感じなくなっている。

中年になると、他人と過ごすことへの許容度が下がり、存在自体がうっとうしさを感じさせるようになる。容姿の老化や物音、人の気配などが影響しているのか、その理由は不明である。

【中年の日常エッセイ】年をとると「不要な存在感」が否応なく増している。こんなつもりじゃなかったのに。

定職に就かず、家族を持たずフラフラすごし、ネットの仲間を集めてシェアハウスを作った20代と30代。「日本一有名なニート」とも呼ばれたphaさんが、40代半ばのいま感じるのは「すべての衰え」。

ずっと右上がりに楽しいことだけやって生きていけたらいいな、と思っていたのに、最近は本を読んでも音楽を聴いても旅行に行っても楽しくない。

そんな中年の日常を描いたエッセイ『パーティーが終わって、中年が始まる』から抜粋し、3回にわたってお届けします。

前回記事はこちら:『定職・家族なしで40代突入、感じた「生き方の限界」』

■「みんなで雑魚寝」が日常だった20代

 こないだ19歳の若者と話していたら、地方から上京してきたけど決まった家がなくて友達の家を泊まり歩いてる、と言っていて、その話を聞いてとても懐かしい気持ちになった。

 自分もそんな生活をしていた頃があった。28歳で会社を辞めて無職になったとき、大きなザックひとつだけを背負って、いろんな友達の家やシェアハウスを転々と泊まり歩いていた。その後、自分でシェアハウスをやっていた頃は、あちこちからやってきたいろんな人を無秩序に泊めたりもしていた。

 ああいうのはやはり、泊めるほうも泊まるほうも若かったからできていたのだな、と思う。若者はリビングの片隅に適当に泊めておいても邪魔じゃない。ひとつの部屋でみんなで雑魚寝(ざこね)したりもよくしていたし(雑魚寝という言葉だけでもはや懐かしい)、布団なんかなくても平気で床で寝ていた。

 40代になった今では、全くそういうことをしたいと思わなくなってしまった。今は、友達の家に泊まっても友達を自分の家に泊めても、相手のことをうっとうしく感じてしまいそうで怖い。

 あちこちを泊まり歩いている若者の話を聞いて一瞬うらやましく思ったけれど、実際にそういうことをしたいわけではなく、適当に人の家で夜を明かしたりしたいと自分が全く思わなくなっていることを確認して、あの頃から遠くに来てしまったな、という感慨を持っただけなのだった。

■中年が発する「うっとうしさ」

 中年になって、他人と一緒に過ごすことの許容度が下がったのはなぜだろうか。なんだか中年になると、自分も他人も、存在しているだけでうっとうしさが発生してしまっている気がする。それは容姿が老けてきたからなのか、それとも物音や人の気配が苦手になったからなのか。