戦艦が「うっかり爆沈!」実はけっこうあった? 史実が語る旧日本海軍のガバナンス

AI要約

1918年に旧日本海軍の戦艦「河内」が火薬庫の爆発により爆沈した事件について。

日本海軍の象徴として期待された「河内」の喪失が日本に衝撃を与え、同型艦の摂津は標的艦に転用されたこと。

「河内」の爆沈は古い火薬の発火によるものであり、火薬の保管方法に対する問題が露呈した点。

戦艦が「うっかり爆沈!」実はけっこうあった? 史実が語る旧日本海軍のガバナンス

 今から116年前の1918(大正7)年7月12日、旧日本海軍の戦艦「河内」が突如、広島県の徳山湾で爆沈しました。

 爆沈とは爆搭載する弾薬、積荷、燃料などが爆発して、艦船の船体が破砕されることによって浮力を喪失し、沈没に至ることをさします。

 爆沈の原因には敵の爆弾による被弾や魚雷による被雷など、戦闘行動時に起こる場合のほか、浮力の喪失の主な原因が戦闘行動によらない「事故」によって起こるケースも含まれており、火薬庫の爆発で爆沈した「河内」は後者にあたります。

「河内」は日露戦争(1904~05年)終結後の1907(明治40)年に横須賀海軍工廠で起工、1912(大正元)年3月31日に竣工しています。戦艦「三笠」など、外国から導入した艦艇の活躍で日露戦争に勝利した日本海軍でしたが、この時代は軍艦、とりわけ戦艦の進化のスピードが速く、1910年代にはすでに、「三笠」をはじめとする日露戦争で活躍した艦艇では、欧米列強の戦艦に対抗するのが困難になっていました。

「河内」は主砲として30.5cm砲12門を装備していましたが、砲塔の全てが船体の中心線上に配置されておらず、片舷に向けられる主砲の数が最大8門でしかないという問題を抱えていました。それでも、日本国内で建造された戦艦であったことから日本海軍と国民の期待は大きく、海軍の象徴と言うべき第1艦隊の旗艦を務めました。

 第一次世界大戦(1914~18年)では東シナ海や黄海の警備のため出撃するなど、日本を代表する艦船のひとつと目されていました。その艦が爆沈してしまったのですから、当時の日本海軍と日本人が受けた衝撃は大きかったのではないかと思います。

「河内」の同型艦である戦艦「摂津」は、「河内」の爆沈から5年後の1923(大正12)年、列強海軍の艦艇保有数を定めた「ワシントン軍縮条約」のために戦艦から砲撃訓練や爆撃訓練に使用される標的艦(日本海軍での呼称は特務艦)に変更されています。このため仮に「河内」が爆沈していなかったとしても、「摂津」の代わりに標的艦となっていたか、ワシントン軍縮条約の制約で廃艦になっていたかもしれません。

 とはいえ実戦や条約によらず、多額の国民の税金をつぎこんで建造した戦艦を事故で失ってしまったのは、日本海軍、さらに言えば大日本帝国にとって痛すぎる事態であったのは確かだと思います。

 実を言うと日本海軍が事故で戦艦を失ったのは「河内」が初めてではありません。その約1年半前の1917(大正6)年1月12日、巡洋戦艦(建造時は装甲巡洋艦)の「筑波」を、やはり火薬庫の爆発により失っています。

 また、前述した「三笠」は、現在も神奈川県横須賀市に静態保存されていますが、実のところ一度爆沈しています。

「三笠」が爆沈したのは日露終結間もない1905(明治38)年9月11日のことで、入港していた佐世保港で後部火薬庫が爆発したためです。「筑波」に比べて浅い海で爆沈しており、同艦に比べれば引き揚げて再就役させることは簡単だったのではないかと思われますが、「筑波」では諦めた浮揚と再就役を「三笠」で行ったのは、やはり「三笠」が武勲艦だったからなのかもしれません。

「河内」の爆沈は、常用期限を5年以上経過した古い火薬の発火によるものと推定されています。実は「筑波」の爆沈の調査を受け、火薬の保管方法に対して誘爆の危険性が指摘され、その改善も求められていましたが、「河内」の爆沈後、同艦を含むほとんどの艦で対策が行われていなかったことも明らかになりました。

 危険性が指摘されているにもかかわらず無対策のままで「河内」という貴重な戦艦を失ってしまうこと事態、とんでもない話なのですが、ありがちなヒューマンエラーで爆沈したとすれば、「河内」はまだマシだったのかもしれません。