「ル・マン・クラシック」とは、かつてのル・マン24時間レースで輝きを見せたヒストリックカーによるレースだ

AI要約

ル・マン・クラシックは、ヒストリックカーレースの最高峰であり、2016年も開催された。今年はグループCカーレースも組み込まれ、かつてない盛り上がりを見せた。

日本勢の存在も目立ち、トムス85Cや日産R90CKといった車両が再びル・マンを走る姿が印象的だった。

久保田克昭さんや国江仙嗣さんなど、日本のドライバーも活躍し、ル・マン・クラシックに多彩な車両やストーリーが集まっていた。

「ル・マン・クラシック」とは、かつてのル・マン24時間レースで輝きを見せたヒストリックカーによるレースだ

ヒストリックカーレースの最高峰、ル・マン・クラシックが2016年も開催された。相変わらず盛況だったが、今回は人気のグループCカーレースも組み込まれ、かつてない盛り上がりを見せていた。そして、目についたのが日本勢の存在。かつてル・マンやJSPCを走った車両が再びル・マンを快走した。そのときの様子を振り返ってお伝えしよう。

【健在なり、日本のグループCカー】

2年に1度、かつてのル・マン24時間レースを再現したヒストリックレースが、同じル・マンのサルトサーキットを使って開かれている。その名もずばり「ル・マン・クラシック」。

2002年に始まったレースで主催はピーターオート、これを本家のACOがサポートするかたちで、高級時計ブランドのリシャール・ミルが冠スポンサーとしてつく。ル・マン24時間と同じく、フルコースで開かれる数少ないレースのひとつで、そのことがこのレースの持つ意味の大きさ、ステイタスを伝えてくる。

対象となる車両は、1923年から1979年の間に製造されたもので、この56年間を6つの時代カテゴリーで区切り、耐久レース形式としたものだ。ちなみに、時代区分によるクラスをグリッドと呼び、グリッド1(23~39年)、グリッド2(49~56年)、グリッド3(57~61年)、グリッド4(62~65年)、グリッド5(66~71年)、グリッド6(72~81年)と分けている。

一方、ル・マン・クラシックとは別に、これよりもう少し新しい時代のクラシックレース、グループCカー(82~92年)による「グループCレーシング」が、年間数戦、ヨーロッパの主要サーキットを巡るかたちで開催されている。グループCカーの人気は洋の東西を問わず高く、基本的には富裕層のジェントルマンレースであるにもかかわらず、開催のたびに観客が足を運ぶ状況が続いている。

このグループCレーシングを傘下に収めたピーターオートが、今回のル・マン・クラシックに7番目のレースとして組み込んだのだ。

従来のル・マン・クラシックだけでも盛況を極めていたところに、人気のグループCカーも加わったため、今回のル・マン・クラシックは、かつてない賑わいを見せることになった。

そのグループCカーレースに、日本製Cカーで参加する日本人がいた。日産R90CKを使う久保田克昭さんとトムス85Cをレストアし、今回が初参加となる国江仙嗣さんのお二人だ。

ル・マン・クラシックへの参加が念願だったという国江さんは、トムス85Cを入手してレストア。この車両は見てのとおり、白地にレイトンハウスの文字を配した85年のル・マン参戦車で、当時のドライバーは中嶋悟/関谷正徳/星野薫組。31年ぶりのル・マン挑戦となっていた。

トムス85Cは、正確には童夢85Cとなるモデルだが、トヨタがル・マンに挑戦を始めた最初のモデルで、実際にはトヨタでなく、トムスと童夢の共同プロジェクトにトヨタ東富士開発の4T-G型ターボエンジンを組み合わせる態勢だった。

国江さんの85Cは、今回のル・マン参戦に向けレストア作業を急ぎなんとか間に合わせたという事情を抱え、練習走行が実質のシェイクダウン走行となるあわただしい経過だった。

また、リペアパーツの問題から4T-G型ターボの復旧がほぼ不可能で、代替エンジンとして3S-G型ターボを選択。実際には、85C+3S-G型ターボのパッケージングによる実戦参加例はなく、主催者に状況を説明のうえ、了承を得て積み替えたものだ。

ル・マン・クラシックの参加規定には、その車両が現役当時の車両諸元に準じること、という項目があり、エントリー台数の多いモデル、たとえばポルシェ906あたりだとオリジナルと搭載エンジンが異なったりするケースでは、まず参加は不可能だという。

逆に、ル・マンを走った車両でありながら、なんらかの理由によって原状復帰が不可能なケースで、しかも今回のように珍しい車両である場合には、考慮の余地があるようだ。現在のル・マン・クラシックは、参加申し込みが多く、ふるいにかけるかたちで出走車を絞り込んでいるような状態だ。

各クラス(グリッド)の定数は、ル・マンのフルグリッドに従い55台前後。これが7クラス(グリッド)設けられたため、400台近い車両が所狭しとパドックを埋め尽くしていた。これは、どんなミュージアムをもってしても、その質と量において、比肩し得るところはないだろう。

なんとか参戦にこぎつけた国江さんだったが、燃料系のトラブルにより完走はならず。残念な結果だけに再戦の意欲は満々。笑顔が印象的だった。

一方、日産R90CKを駆った久保田さんは、この世界では知る人ぞ知る人物。前回、ル・マンで開かれたグループCレースでは、断トツのポールポジション、決勝も驚異の追い上げ(2人1組でドライバー交替が義務づけ)で3位獲得と速いところを見せいた。また、クラシックF1ではロータス72Eを駆り、モナコGPをポール・トゥ・ウインで勝っている、文字どおりの最速ジェントルマンドライバーだ。

今回もポールポジションを獲得。決勝は、トップを快走しながら最終ラップでまさかのガス欠。ピットの計算ミスから勝利を逃していた。

久保田さんのR90CKは、90年のル・マンに参戦したNME(ニッサンモータースポーツ・ヨーロッパ)の25号車。この年のル・マンは、僚友となる24号車が1000psオーバーの予選用VRH35型エンジンを積み、2番手以下に6秒以上の大差をつけてポールポジションを獲得。関係者やファンの度胆を抜くポテンシャルを見せ、注目を浴びたレースだった。

グループCレース参戦当初の久保田さんは、当時と同じくゼッケン25で走っていたが、現在は日本のニスモのエースゼッケンである23に代え、同シリーズにレギュラー参戦中だ。

それにしても、コースサイドで車両を眺めていると、懐かしい感覚がよみがえってくる。日本で見覚えのある車両が少なからず走っていたからだ。

その筆頭格は、なんといってもトラストポルシェ956だ。JSPC(全日本スポーツプロトタイプカー選手権)シリーズ開幕初年の83年にトラストが投入。以後に続くプライベートポルシェ勢の先駆けとなり、同年のJSPCを4戦4勝でタイトルを獲得。日産、トヨタのメーカー系車両を子供扱い以下にした車両だ。

同じポルシェでも、グループCレース終盤期の仕様で走っていたのがレイトンハウスポルシェ962Cだ。80年代終盤、レイトンハウスがF1(レイトンマーチ)にも進出していた時期で、ブルーグリーンとでも表現できる独特のカラーが印象的な車両だ。

当時は折からのバブル期。F3000は経験したがF1は機会がなく、というF1予備軍とでも言えるようなドライバーが、ギャランティのよさも手伝って日本のレースに参戦。

レイトンポルシェのドライバーも例外ではなく、クリス・ニッセンとフォルカー・バイドラーが務めていた。バイドラーはその後、マツダ787Bで91年ル・マンを制覇することになる。

日本のプライベートポルシェ勢はル・マンにも遠征した。JSPCの車両を送るか、海外有力チームのポルシェをレンタルして走らせるか、方法はいろいろあったが、そうした中で好成績を残したのがアルファレーシングの黒いポルシェ962Cだった。

ル・マンの6kmのストレートがふたつのシケインで分割された90年、従来どおりロングテール仕様を用意するポルシェチームが多い中、アルファとブルンはコース特性の変化を読み、ショートテール仕様を持ち込んでいた。

結果は、ブルンが最終盤まで2位で頑張り(エンジンブロー)、アルファが3位でゴールする快走を見せていた。もう少し話題になってもよかったが、ドライバーが全員外国人(ティフ・ニーデル、デビッド・シアーズ、アンソニー・リード)ということもあってか、日本での認知度は低かった。

ポルシェで知られる黄色いフロムエーカラーは、JSPC終盤期に日産R91CKを彩った。両車ともノバ・エンジニアリングのメンテナンスで、単純に車両を入れ替えただけの話だが、当時最強のVRH35型エンジンを得ることで上位完走率が高かった。

また、ノバの車両だけあってドライバー陣容も充実。中谷明彦とバイドラーの黄色いレーシングスーツは、華やかなサーキットにあってもひと際目立つ存在になっていた。

ほかにも、日本で馴染みのある希少な車両を最後に何台か紹介しておきたい。ランチアLC2(ガレーヂ伊太利屋が導入)やザウバー・メルセデスC11(WEC、WSPCでワークス参戦)がその代表例。93年のオーベルマイヤーポルシェはスポンサーがすごい! いずれもグループCレースの歴史を作ったキーマン(カー?)だった。

初出:ハチマルヒーロー 2016年11月号 Vol.38

(記事中の内容は掲載当時のものを主とし、一部加筆したものです)