【コラム】大韓体育会、後輩のために生まれ変わらなければならない(2)

AI要約

韓国の体育指導者に対する教養や人格形成の重要性について述べられている。

政治介入や権利行使だけではなく、体育指導者自身の主体意識や使命意識、人格の向上が求められる。

体育の目的は自己満足ではなく、社会的義務や人間らしい営みの向上のためにある。

今の韓国選手たちの共同体生活はどうか分からない。芸能分野の素養のために音楽も鑑賞し、美術作業の大切さにも目を開かなくてはならない。名画を鑑賞し、若い時期の学識と教養のための読書を推奨しているのかも気になる。可能なら社会各界の関心がある人々を招いて講演も聞かせるなど学校教育よりも教養を高めるために努力しているのか分からない。成年になった時、体育機関と青年時期を通じて自分の人生の多くのことを体得したと自負できるなら、これはさらに高い水準の人材育成の道となる。体育技術が人生の「部分」であって「すべて」ではないためだ。体育界の指導者が社会的重責を引き受けるためには青年時期に修養と人格を備えなければならない。早く出発して早く人生を終わらせる人は自ら不幸を招くだけだ。芸術家は同じ専門的努力を生涯続ける。社会的に大きな業績を残す人は60歳以降だと認める。体育界の指導者も同等な社会的尊敬と感謝の対象にならなければならない。

なぜこのような良くない事態に至ったのか。多くの人は政治介入という。政治家たちが権利行使に利用するという意向と政治的悪習慣のためだという指摘だ。権利だけを行使して責任と義務が伴わないなら秩序蹂躪(じゅうりん)だ。しかし、これよりも重要なことは、体育界の責任者は明確な主体意識と自尊、自律性を守らなければならないということだ。協会に与えられた責任は国家と社会のための義務なので会員全体と一緒に最善の努力を共にするという使命意識が先んじなければならない。職責の上下関係はあるが、人間らしい教養と人格の価値は同等だという観念が必要だ。職責が低くても識見が高い人がいて、人格的として尊敬を受けるほどの部下はたくさんいるという謙虚な心構えが重要だ。厚遇を受けたいと思うなら、まず相手を厚遇しろという教訓は真理だ。相手を軽く見て尊敬される人がいないように、人を罵る人が相手よりも高く認められることはない。

◇体育の目的、熟考を

私は一生を教育界で送った。教育の結実は弟子をどれくらい大切にして愛するかにかかっている。知識を伝達することは他の人のほうがもっとうまいかもしれない。しかし、弟子の人格と幸福のために与える愛は自然な義務だが容易ではない。それでもその心と誠意を持って弟子を愛した人が弟子の尊敬を受ける。命令を下し、指示に従わなかったからと体罰を加えたり、人格を冒とくする悪口を謹んだりしないなら、自身の人格と指導者としての資質をまず振り返らなくてはならない。先輩の服の洗濯を強要したり常習化したりするなら、その事実そのものが一般社会の慣習になりえないことを反省しなければならない。精神的価値秩序は水準が高いほど尊くなる。

体育の目的は自分自身のためでなく、すべての人間らしい営みの向上のためだ。社会的義務まで目指して仕える指導者になれば、国家のための献身と感謝の対象になる。

キム・ヒョンソク/延世(ヨンセ)大名誉教授