《パラグアイ》パラグアイ唯一の和牛農場訪ねて=「カバーニャH」林英二郎さん=≪2≫=国内唯一の和牛農場として独立

AI要約

林さんは1976年から2003年まで、イグアス移住地の大森農牧株式会社(CAOSA)の幹部スタッフとして牧場開発に従事した。

牧場開発に当たり、初めはスペイン語も不慣れで右も左も分からなかったが、後に義父となる故小原力(つとむ)さんの助けを借りてパラグアイでの生活をスタートした。

義父の小原さんは靴職人であり、パラグアイの農牧に詳しかった。

また、6年後には地元の女性と結婚し、子供たちをもうけて家族生活をスタートさせた。

林さんは2003年に29年間勤めた牧場を清算し、和牛の集約飼育を本格的に始めるために新たな農場を購入し、現在では築地207mの農場で300頭の和牛を育てている。

《パラグアイ》パラグアイ唯一の和牛農場訪ねて=「カバーニャH」林英二郎さん=≪2≫=国内唯一の和牛農場として独立

 林さんは1976年から2003年まで、イグアス移住地の大森農牧株式会社(CAOSA)の幹部スタッフとして牧場開発に従事した。最終的に約2700haの原始林を切り開き、人工草地を造成して4400頭の牛を放牧する農場になった。「牧場で勤めていた現地の人は皆、泥棒や野生動物から身を守る為にも38口径のピストルを常に所持して、夜もそれを枕の下に入れて寝る生活だった」と当時の生活を振り返る。

 牧場開発に当たって、最初はスペイン語も不慣れで右も左も分からなかったパラグアイ生活で、親身に助けてくれたのが後に義父となる故小原力(つとむ)さんだった。福島県出身の小原さんは1933年11月サントス着のラプラタ丸で両親に連れられて3歳の時に渡伯した。だが両親は一年ほどで奴隷状態の農場に見切りをつけ、パラグアイで最初の日本人移住地ラ・コルメナに転住したという。

 当初の移民は原始林の開拓やマラリアなどで困難に直面したが、小原さんは10代から靴職人に弟子入りし、素材の革を求めてパラグアイの農牧に詳しかった。「一緒に奥地のレストランに入った時、スープにたくさんのウジが浮かんでいても『スプーンで隅に寄せれば大丈夫』と何があっても動じない義父だった」と懐かしむ。

 パラグアイに移住してから6年後、ラ・コルメナ生まれ育ちの妻アリシア菊美さん(70)と結婚し、1男2女に恵まれた。子供たちが学齢期に入ってからはイグアス移住地に単身赴任し、妻子はアスンシオンで生活し、週末だけ帰宅する生活が続いた。義父は惜しくも1991年に60歳余りで早世した。

 2003年に29年心血を注いだ会社を清算し、牧場から1千頭近い和牛を引き継いだものの、アスンシオンから約90キロ離れたバレンスエラで借りた農場を牛とともに転々とする再出発だった。現在の場所に自分の農場を購入して落ち着いたのは2009年。標高207m、15haの荒れたサトウキビ畑を整地し、黒毛和牛の集約飼育を本格的に開始した。

 飼料作りから繁殖、育成、肥育までを行える施設と設備を設置し、手探りで改良を重ねてきた。2011年には米国から新たに受精卵を輸入し、農場の和牛種はパラグアイの農村協会にも正式に登録されている。場内には3棟の牛舎が立ち並び、常時約300頭の和牛が飼育されている。繁殖期には日々子牛が誕生し、従業員たちも出産に立ち会う。

 「和牛の味は食べる餌が命」と飼料には徹底してこだわり、トウモロコシは輸出用から厳選し、3キロ離れた5・75haの第二農場で育てた牧草を刈り取り発酵させてサイレージをつくり、独自の混合飼料を作る。

 毎年約100頭の和牛が出荷され、以前はブラジルの高級レストランにも輸出していたが、現在はパラグアイのみで販売している。通常、食肉加工業者は個人農場の牛は取り扱わないが、林さんが異国の地で真摯に和牛に向き合う姿を応援し、ドイツ系の加工業者が精肉カットまで受託してくれている。(続く、取材=大浦智子)