ハリウッドに刻まれた「MAKO」 偏見と闘った日系俳優の栄光と苦悩 米社会の差別は今…

AI要約

米国ハリウッドの映画業界に足跡を残した日系人俳優マコ・イワマツの生涯と功績について紹介。

マコはアジア系俳優としての偏見に打ち勝ち、アカデミー賞助演男優賞やトニー賞ミュージカル主演男優賞のノミネート実績を誇る。

アメリカ社会における人種差別との闘い、マコの自伝にみられる苦悩や家族とのエピソードを通じて紹介。

ハリウッドに刻まれた「MAKO」 偏見と闘った日系俳優の栄光と苦悩 米社会の差別は今…

 映画の都として有名な米ハリウッド。観光客でにぎわう中心部を歩けば、誰もが知る銀幕のスター、ミュージシャンらの名前が歩道に多数刻まれたエリアにたどり着く。寡聞にして最近まで聞いたことがなかったが、そこには「MAKO」の4文字もある。

 2006年に72歳でこの世を去った俳優マコ・イワマツ(岩松信)。同胞と創設した劇団を通じてアジア系に植え付けられた紋切り型イメージをぬぐい去ろうと、主にエンタメ界での偏見に対抗した。間接的には米国社会全体に根強く残る人種差別に立ち向かった形だ。(時事通信社ニューヨーク総局 松岡謙三)

 兵庫県出身のマコは、両親が米国に移住したため祖父母らに育てられた。1949年に15歳で渡米し、ニューヨークの親元で暮らし始めた。大学を卒業し、米軍での兵役を経て俳優の道を歩む。受賞には至らなかったものの、67年にスティーブ・マックイーン主演の「砲艦サンパブロ」でアカデミー賞助演男優賞に、76年に黒船来航をテーマにした「太平洋序曲」でトニー賞のミュージカル主演男優賞に、それぞれノミネートされた実績を誇る。

 「マコは『多くの差別を受けている』と不平を漏らしていた」。マコと接した幼少期をそう振り返るのは、コロンビア大で教壇に立つ写真ジャーナリスト、ジェイク・プライス(50)だ。父で俳優の故ポール・プライスがマコと親しく、家族ぐるみの付き合いがあった。第2次大戦中に米国で日系人が抑留された事実に加え、何よりも「公正さ」を教えてくれたという。思い出すのは、「ビールを飲み、いつもたばこを吸っていた」姿。よく笑い、流ちょうな英語を話し、ユーモアのセンスがあったのも印象に残っている。

 84年に出版されたマコの自伝「アメリカを生きる」(日本翻訳家養成センター)には、アジア系ゆえに米国でなめた辛酸が記されている。例えば、マコは米軍除隊後、カリフォルニア州の演劇学校に進むことを決断。同校の門を叩いたが、希望の専攻が勝手に変更されたのを知り、あぜんとする。学校側に猛抗議すると、告げられた理由は、プロになってもすぐに役柄が固定するので「舞台よりも舞台装置の方がいいと思った」。

 ちなみに同校では、ポール・プライスと親交を深めただけでなく、映画『クレイマー、クレイマー』『レインマン』で知られる名優ダスティン・ホフマンも同時期に在籍していたという。

 当時4歳の娘が口にした何気ない問い掛けもまた、マコの苦悩を雄弁に物語る。「あのねえパパ、どうしてパパは、いつも、きたないひとになるの?」「うん、性格的な役のほうが、ずっとおもしろいんだ」「セイカクテキって、なあに?」

 ミモザがなにを言いたいのかピンときた。ぼくは話をそらそうとした。どうせ娘には、人種偏見の根深さなどわかりはしない。だが彼女は続けた。

 「たまには、おうさまや、おうじさまになればいいのに」