戦後、日本とソ連の家族の間で揺れ動いた「シベリア民間抑留者」の苦悩 二つの国に翻弄された男女を描く『脱露』

AI要約

第二次世界大戦後、ソ連軍に占領された南樺太では多くの日本人市民が不当逮捕・強制連行され、シベリアの地に留め置かれた。この「シベリア民間人抑留」によって、当事者だけでなく彼らの家族までもが日ソ両国の政治的な思惑に翻弄される。

歴史に長らく埋もれていた彼らの激動の人生を8年かけて取材したノンフィクション『脱露 シベリア民間人抑留、凍土からの帰還』から、日本に妻子を残し、現地女性と新たな家庭を築いた木村鉄五郎のエピソードを抜粋で紹介する。

木村鉄五郎氏は甘いマスクの、なかなかダンディな男性である。

戦後、日本とソ連の家族の間で揺れ動いた「シベリア民間抑留者」の苦悩 二つの国に翻弄された男女を描く『脱露』

第二次世界大戦後、ソ連軍に占領された南樺太では多くの日本人市民が不当逮捕・強制連行され、シベリアの地に留め置かれた。この「シベリア民間人抑留」によって、当事者だけでなく彼らの家族までもが日ソ両国の政治的な思惑に翻弄される。

歴史に長らく埋もれていた彼らの激動の人生を8年かけて取材したノンフィクション『脱露 シベリア民間人抑留、凍土からの帰還』から、日本に妻子を残し、現地女性と新たな家庭を築いた木村鉄五郎のエピソードを抜粋で紹介する。

木村鉄五郎氏は甘いマスクの、なかなかダンディな男性である。

(シベリア地方)カンスク市内を何度か引っ越しているが、1995年テレビクルーが取材に来た時は、エレベーターなしのアパート8階の1DKの部屋に、妻のエンマと暮らしていた。

「日本サハリン協会」が保存している「同胞についての調査票」には、鉄五郎氏の概要はこう記録されている。

生年月日は日本の戸籍では「1920年9月1日」。ロシアのパスポルトでは「1918年9月1日」。ロシアのほうはどこかの時点の聞き取り調査で間違えてそう記されてしまったもので、この程度の間違いは珍しいことではない。

以下、「肉親と手紙のやり取りをしているか?」の問いには「ありません」

「戦後日本を訪問したことがあるか?」には「ありません」

「今まで日本への訪問希望をどこかに出したか?」「出しませんです」

「日本語の読み書きができるか?」「大変わすれました」

1994年、カンスクにいることがわかった翌年に行われた問いと答えである。

余白には「奥さんに会いたい」という聞き書きのメモが残っている。

鉄五郎氏については引揚者からの情報でシベリアにいることが伝わるくらいで、家族に宛てた手紙もなく、他の消息は一切分からないままだった。あるとき突然に現れて、日本の妻と子に再会できたのは奇跡と言える。戦争による断絶は、再会によって埋められるほど浅くもないし単純でもないものであることが、この後明らかになってくる。

「日本の妻と子どもに会うため、父が初めて日本に行くとき、母は父に自分の心の命じるままにしなさいと言いました。母は父が日本の妻と息子にずっと罪悪感を持っていて、彼らに会わなければならないことを知っていました」

そう語るのは、鉄五郎氏の義理の娘ニーナである。ニーナは鉄五郎氏の再婚相手エンマの娘で、鉄五郎氏と共に何度も日本を訪れ、日本の妻子とも交流した。日本の知り合いは皆「木村ニーナ」と彼女のことを呼んでいる。

【鉄五郎がソ連に連行された経緯】

戦後、樺太に暮らしていた木村鉄五郎は旧ソ連軍占領下の苦しい生活から逃れるため、1946年8月に当時妊娠中だった妻の美代子らと共に木造漁船で北海道に渡ろうとするが、その道中で逮捕される。その後、シベリア地方の都市カンスクの収容所にひとり連行された鉄五郎は、辛い労働と飢えに苦しむ。

1948年、日本に帰る術もわからず、頼る先もない状態で出所したが、木工場でトラックの修繕工の仕事を見つけ、現地の女性と結婚。祖国への思いを残しながらも、ソ連の妻子のために帰国しない決意を固める。妻の病死後、エンマ・ペドロヴナ・シュタングと再婚した鉄五郎は、義理の娘ニーナに父として慕われるようになる。

一方、美代子は樺太の豊原市の刑務所に収監され、服役中に息子の哲郎を出産。1947年に釈放され、再婚もせずに息子と9人のきょうだいを養うために働き続けた。別離から50年近い月日が流れ、夫との再会をとうにあきらめていた1993年、突然、美代子のもとに鉄五郎の一時帰国の報が届く。美代子は迷いながらも夫と会う決意を固める。エンマも日本の妻との再会を受け入れながらも、心は複雑に揺れ動く──。