〔海外〕2024年7月の災害を振り返る

AI要約

2024年7月には、ハリケーン「ベリル」による被害やトランプ氏の選挙集会での銃撃事件、バングラデシュでのデモが起こった。ハリケーン「ベリル」は最大のカテゴリー5まで発達し、数十人の死者を出した。トランプ氏は銃撃で負傷したが、事件後は共和党大会にも出席した。バングラデシュでは公務員採用を巡るデモが激化し、首相がインドへ亡命する事態となった。

ハリケーン「ベリル」の影響で、アメリカのテキサス州では停電が発生し、猛暑の中で10人以上が死亡。トランプ氏の選挙集会での銃撃事件では、1人が死亡し、トランプ氏が負傷した。バングラデシュのデモでは300人以上の死者が出た。

これらの出来事は、自然災害から政治的な事件まで幅広い局面で起こったものであり、各地域で人々の安全や政治情勢に大きな影響を与えた。

2024年7月に発生した海外での大規模な災害、事故・事件の案件について振り返ります。

※被害の内訳については、原則的にレスキューナウによる情報取りまとめ時のものです。それぞれの記事の最終更新日以降の状況については反映されていないことがあります。

●7月

【自然災害】ハリケーン「ベリル」により多数の死者、猛暑と停電により被害が拡大

[被害]死者36人

2024年6月30日に5段階のうち4番目に強いカテゴリー4に発達したハリケーン「ベリル」は、間接的な被害も含め30人以上が死亡する災害を引き起こした。

カリブ海で発生した「ベリル」は西に進みながら、最大の強さである「カテゴリー5」まで発達した。通過した周辺の島々やベネズエラ、ジャマイカで11人が死亡したほか、多くの住宅が損壊したり、多くの停電、通信の断絶、空港の閉鎖などの被害が発生した。

7月8日にはカテゴリ1まで勢力を落としながら、アメリカ・テキサス州に上陸した。勢力を弱めながらも、暴風と大雨をもたらし多くの死者が発生したほか、主要道路が冠水し、港が封鎖され、1300便以上の航空便が欠航するなどの被害が発生した。その後、「ベリル」はアメリカ本土を北東に進み消滅した。

この「ベリル」の影響で、アメリカではテキサス州を中心に270万以上の世帯、企業で停電が発生した。この停電はハリケーン上陸後1週間経っても20万カ所以上で続き、ハリケーン通過後の猛暑の中、エアコンが使えないことなどで10人以上が死亡した。

【テロ】アメリカ・ペンシルベニア州の選挙集会でトランプ氏銃撃され負傷、犯人射殺

[被害]死者2人 負傷者3人

2024年7月13日18:15頃(日本時間14日07:15頃)、アメリカ東部ペンシルベニア州バトラーで、今年行われるアメリカ大統領選に向けて開催された、ドナルド・トランプ氏の選挙集会の開催中、演説していたトランプ氏が銃撃され、右耳を負傷した。この銃撃で、参加者の1人が死亡し、2人が重傷となった。銃撃犯はその場で警護中のシークレットサービスに射殺された。

その後、犯人は同州内に在住する20歳の男と判明したが、犯行動機やその背景となる容疑者の思想は不明、また支援者の存在は浮かび上がっていない状況で捜査が継続されている。

トランプ氏は銃撃直後に退避し、地元の医療機関で検査を受けたが、翌々日の15日からはウィスコンシン州で開催された共和党大会に出席し、20日には選挙集会に出席した。またバイデン大統領も、事件に対し声明を発表した。

アメリカ大統領選挙では、1912年に再出馬したセオドア・ルーズベルト元大統領が銃撃を受け負傷したが、一命を取りとめた。また1968年には、1963年に銃撃を受け死亡したジョン・F・ケネディ大統領の実弟、ロバート・F・ケネディ元司法長官が民主党予備選の期間に同じく銃撃を受け死亡している。

【政変・政情不安】バングラデシュで公務員採用をめぐるデモが全国に拡大 ハシナ政権退陣

[被害]死者300人以上

2024年7月上旬から8月上旬にかけて、バングラデシュで学生を中心としたデモが発生し、8月5日にはハシナ首相がインドに亡命する事態となった。

デモは、公務員採用の特別枠に関して、政府が撤廃する方針を高等裁判所が違憲としたことをきっかけに発生した。7月16日に治安組織との衝突で死者が出ると、デモは暴徒化し、全土へと拡大。首都ダッカでは国営テレビや政府関係機関、地下鉄施設の破壊が行われ、7月18日と翌19日には多数の死者が出た。これに対し、バングラデシュ政府は7月18日にインターネット通信を遮断したことをはじめ、公共の場で集会の禁止、夜間外出禁止令などでデモの沈静化を図った。

その後、7月22日に最高裁判所が公務員採用の特別枠廃止を認めたことで、一度デモは沈静化したが、8月に入ると再びデモが活発化した。8月4日にはハシナ政権退陣を求める大規模デモが発生し、多くの死傷者が出た。これに対し、政府は再び外出禁止令を発令すると共に、急きょ5日から7日の3日間を休日とするとした。しかし、デモは収まることがなく、5日中にハシナ首相はヘリコプターでインドへと逃れ、2009年から15年間続いたハシナ政権は退陣に追い込まれた。その後、大統領やデモ隊の指導者、軍幹部などが話し合いを行い、ムハンマド・ユヌス氏を顧問とした暫定政府が発足する方向で決定した。ユヌス氏は貧困層向けの「マイクロファイナンス」を行い、2006年にノーベル平和賞を受賞していたが、ハシナ政権とは対立関係にあった。

デモのきっかけとなった公務員採用の特別枠は、1971年にパキスタンからの独立戦争で戦った兵士の家族・子孫に全体の3割を割り当てるもの。この制度に対しては政権支持者に便宜を図っているという批判があり、政府は2018年に撤廃の方針を示していた。また、デモに対するハシナ首相の発言もデモを暴徒化させる要因となり、デモそのものも死者が出た7月16日以降、ハシナ政権の退陣を求めるものへと徐々に変化していた。