日米を戦争へと導いた「チャイナドレスの貴婦人」宋美齢の壮絶人生

AI要約

20世紀前半の中国を動かした「宋家三姉妹」の三女・宋美齢の壮絶な人生と、彼女がどのように日中戦争や太平洋戦争に影響を与えたかに迫る。

チャイナドレスの正体や歴史、上海での流行から宋美齢が好んで着用していた理由について説明。

米国で育ち英語力を活かし、外交面から影響力を発揮した宋美齢が、日中戦争時におこなった演説や米国での活動について詳しく紹介。

日米を戦争へと導いた「チャイナドレスの貴婦人」宋美齢の壮絶人生

20世紀前半の中国を動かした「宋家三姉妹」の三女・宋美齢は、米国のルーズベルト大統領まで魅了し、日中戦争や太平洋戦争に影響力を及ぼしていた。日米中の歴史に詳しい作家の譚璐美氏が、宋美齢の壮絶な人生に迫る。

日本でもおなじみのチャイナドレスは、中国伝統の女性の民族衣装だと思われているが、実はそうではない。

チャイナドレスは中国語では「旗袍」(チーパオ)と呼ばれ、原型は、清朝時代に「八旗」(はっき)と呼ばれる満州貴族の軍団が騎馬用に着た服(袍)で、襟元を小さくして砂嵐から肌を守り、馬に跨るために両足が広く開くよう裾が分かれていた。

それが1920年代、上海で西欧モダニズム文化が花開いた時代に、流行に敏感だった上海の女子学生たちが、洋服と融合させて今日のような細身の「海派旗袍」(ハイパイチーパオ、洋風ドレス)を生み出した。

当時の上海には英国、フランスなどの租界が広がり、外国人が多く住んでいたため、「最新流行のファッションは、パリから一日でロンドンへ伝わり、3日で上海へ伝わる」と言われたほどだった。ちなみに、「日本には、ひと月かかってようやく伝わる」と言われていたそうだ。

1930年代になると、日中戦争が始まり、中国は大混乱に陥ったが、国民政府の最高指導者だった蒋介石の妻で上海出身の宋美齢(そう・びれい)が、好んでチャイナドレスを着たことから「近代的な女性」のイメージがつき、流行した。

宋美齢は、20世紀前半の中国を動かした三姉妹として有名な「宋家三姉妹」の三女だ。長女の靄齢(あいれい)は財閥の孔祥煕(こう・しょうき)と、次女の慶齢(けいれい)は革命家の孫文と、三女の美齢は国民政府総統の蒋介石とそれぞれ結婚したことで、中国では、「靄齢は金銭を愛し、慶齢は国を愛し、美齢は権力を愛した」と言われたりする。

9歳から大学卒業まで米国で暮らした宋美齢は、夫の蒋介石に代わって流暢な英語を使い、外交面から影響力をおよぼした。

日中戦争が始まったばかりの1937年9月11日、南京から全世界へ向けてラジオ放送で演説し、日本軍の横暴を強く訴えると、翌日には全米の新聞にも全文掲載されて大反響を呼んだ。

1943年には米国議会で演説して喝采を浴び、全米各地で講演旅行をおこなって大歓迎された。彼女の南部訛りの英語は米国人に親しみを感じさせ、優雅なお嬢様英語が米国の上流階級に尊敬の念を抱かせた。

米国人は彼女の言葉を介して中国のイメージを作り上げ、侵略国・日本の印象が悪化した。米国政府から多額の軍事支援を引き出すことに成功したのも、日米開戦の背中を押したのも、彼女の功績だったと言ってよいだろう。