【日露戦争】東郷平八郎は戦闘開始わずか30分間で勝利を確信 ロシア新式戦艦5隻の末路とは

AI要約

日露戦争・日本海海戦における日本の勝利は、徹底した砲撃訓練と火薬技術の進化による連合艦隊の完勝であった。

日本海海戦では昼の砲撃によりロシア艦隊の主力が壊滅し、夜の駆逐艦による奇襲攻撃で決定的な勝利を収めた。

東郷司令長官率いる連合艦隊は巧みな戦術と準備により、夜明けにロシアの降伏を受け入れるまでに至った。

【日露戦争】東郷平八郎は戦闘開始わずか30分間で勝利を確信 ロシア新式戦艦5隻の末路とは

 日露戦争・日本海海戦は世界の海戦史上でも例のない完勝だった。それは徹底した砲撃訓練戦術の研究、火薬や信管の開発など入念で周到な準備に支えられた連合艦隊がもたらしたものだ。世界が驚嘆した日本海海戦における日本の秘策を4回にわたって解説する。3回目は「昼の砲撃と夜の駆逐艦」。(『歴史道』Vol.33「日清・日露戦争史」より)

■昼の砲撃と夜の駆逐艦

 敵の一斉砲撃の最中、回頭が終わった旗艦「三笠」の各砲は戦艦「スワロフ」に向かって一斉に火を噴いた。午後2時10分だった。砲撃は正確で、ツァイス製の双眼鏡を目にした東郷は、「あ、また当たった」と頰をゆるませ続けている。

 対するバルチック艦隊の第一、第二戦艦隊の旗艦「スワロフ」と「オスラビア」は、開戦10分もたたないうちに炎と煙に覆われ、陣列から脱落していった。「アレクサンドル3世」も陣外に落ち、「ボロジノ」も炎に包まれている。

 日露の海上決戦は、砲撃開始からの30分間で実質的な勝敗は決したといってもいい。以後のロシアの各艦は、いかに戦場を離脱するかに必死で、日本艦に立ち向かう余裕などなかった。午後3時過ぎには「オスラビア」が沈没し、「スワロフ」も大爆発を起こして左舷に15度も傾き、行動の自由を失っていた。そして廃船同然の「スワロフ」の艦上では、司令塔に命中した砲弾の破片でロジェストヴェンスキー中将が人事不省に陥っていた。

 戦場に夜が訪れた。すでにロシアの新式戦艦5隻のうち「オスラビア」「スワロフ」「アレクサンドル3世」「ボロジノ」の4艦は沈んでいた。午後7時18分、東郷長官は各戦隊に砲撃中止を命じ、翌朝、鬱陵島沖に集合するよう電令した。そして主力に代わって夜の海に出撃したのが小型艦艇、駆逐隊と水雷艇隊だった。

 駆逐艦21隻と約40隻の水雷艇は、死体に群がるピラニアのように三方から敵艦に殺到した。そして敵艦に200mから500mまで肉薄し、次々と魚雷を撃ち込んだ。ロシア艦も一斉に砲門を開いたが、夜の海を走り回る小型艦艇にはなかなか命中しない。この夜襲で戦艦「ナワリン」が沈没し、戦艦「シソイ・ウェリキー」と装甲巡洋艦「ナヒモフ」、「ウラジミール・モノマフ」は大破して漂流していた。他の残存艦は戦う気力が失せ、夜の海を北に向かって一目散に逃げ出していた。午前零時前、夜襲隊は攻撃を中止し、翌朝の集結地点・鬱陵島に向けて戦場を後にした。日本側の損害は水雷艇3隻の沈没のみだった。

 ロジェストヴェンスキー中将からようやく指揮権を引き継いだ第三太平洋艦隊司令官のネボガトフ少将は、残存艦をまとめて深夜の日本海を北上した。この時ネボガトフ少将の乗る戦艦「ニコライ1世」に続航していたのは戦艦「アリヨール」と装甲海防艦「セニャーウィン」「アブラクシン」、二等巡洋艦「イズムルード」のわずか4艦だけだった。

 夜が明けた二十八日午前5時ごろ、東郷司令長官率いる第一、第二戦隊は鬱陵島南西約30カイリに達していた。そこに第五戦隊から「敵艦隊発見!」の無電が入った。第一、第二戦隊は全速力で情報地点に急行した。第四戦隊と第六戦隊も無電をキャッチして全速前進で突進した。午前9時30分ごろ第一、第二戦隊は敵影を発見、ロシアの5艦の包囲態勢を作り、「三笠」が10時半過ぎに距離7000mで砲撃を開始した。他の艦も砲門を開き、ロシア側も「アリヨール」が応戦を開始した。その直後だった、ネボガトフ少将座乗の「ニコライ1世」が突然、軍艦旗と将旗を降ろし、「我、降伏す」の万国信号旗を掲げたのだ。そして僚艦にも「優勢なる敵艦隊に包囲された今、わが艦隊は降伏す」と信号を送った。

監修・文 平塚柾緒(ひらつか・まさお)/1937年茨城県生まれ。編集プロダクション「文殊社」代表。太平洋戦争研究会、近現代フォトライブラリー主宰。『図説 日露戦争』『図説 写真で見る満州全史』(河出書房新社)、『我、奇襲ニ成功セリ』(ビジネス社)など著書多数。