【秘史発掘】中華民国総統・蒋介石とその妻・宋美齢の関係を象徴する3つのエピソード

AI要約

中国国民政府のファーストレディである宋美齢が、新生活運動を牽引し、夫である蒋介石の解放交渉に尽力したエピソード。

1936年の西安事件で、蒋介石が拉致されるが、宋美齢は積極的に交渉し、国共合作を実現させた。

宋美齢は強い意志と決断力で夫を救い出し、中国女性の強さを示した。

【秘史発掘】中華民国総統・蒋介石とその妻・宋美齢の関係を象徴する3つのエピソード

 台湾有事への危機感が日に日に高まっている。そもそも「二つの中国」を生む原点となったのは、日本が敗戦した後に中国大陸で繰り広げられた「国共内戦」だった。「戦勝国」に名を連ねた中華民国・国民党は、中国共産党に敗れて台湾に撤退したが、蒋介石総統は最後まで「大陸奪還」に意欲を燃やしていた。そんな強権的な指導者・蒋介石に最も身近で接し、政治的な“同志”でもあったのが、妻の宋美齢だった。

 夫婦という関係性以上につながっていた2人にまつわるエピソードをノンフィクション作家の譚璐美氏(璐は王偏に「路」)が解説する(同氏著『宋美齢秘録』より抜粋・再構成)。

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 1927(昭和2)年、南京において国民政府を樹立した蒋介石は、国家建設を国民教育の面から進めようとしていた。国家の基盤が脆弱な原因は、政治に無関心で愛国心がなく、礼儀作法も知らない無教養な国民がいるせいだと思っていたからだ。

 蒋介石は法に基づく国民教育を実践することを国家政策の大方針に据えて、3つの運動を実施した。そのうちの1つが「新生活運動」だった。

「新生活運動」の当初の目的は、国民のマナー向上と衛生管理、生活環境を改善することで、国民の教養を高めて、立派な国民を育てようというものだった。そして「新生活運動」の牽引役となったのは、ファーストレディである宋美齢だった。

 宋美齢の歩き方は、わき目も振らずに足早だった。一方、蒋介石は周囲に挨拶したり会釈したりする機会が多く、いきおい宋美齢の後を追うような格好になった。

 その様子を見て、口さがない人々は、宋美齢に渾名をつけて笑った。

「曳狗(イェーゴウ)夫人」──

「曳狗」とは、犬のリードを引っ張って散歩する女性という意味である。

 率先して歩く宋美齢が、まるで蒋介石の首にリードをつけて引っ張っているようだと言うのである。まことに辛辣な表現である。

 1936(昭和11)年12月12日、西安事件が起きた。東北軍総指揮官の張学良と西北軍総指揮官の楊虎城が、蒋介石を拉致監禁した事件である。

 蒋介石は2人に共産軍討伐を命じたが、なかなか動かなかったため、しびれを切らして西安へ督促に行ったところを捕えられた。2人は蒋介石に対して、「共産党と和解する」「国民政府を改組する」「民主諸党派と一致協力して日本軍と戦う」「言論の自由」など、8項目にわたる要求を出したが、蒋介石は頑として拒否した。

 南京の国民政府は、政府軍を派遣して西安を攻撃し、併せて空爆することを検討したが、宋美齢が蒋介石の身の安全を考えて強硬に反対し、張学良と交渉する道を探った。そして、オーストラリア人ジャーナリストで蒋介石の顧問となっていたウィリアム・H・ドナルドを派遣して、張学良に書状を手渡した後、交渉の余地ありとみた宋子文が西安に入り、交渉を開始した。次いで、宋美齢も西安に乗り込み、蒋介石の解放交渉を進めた。中国共産党は周恩来、葉剣英を西安へ派遣し、国民政府の蒋介石、宋子文、宋美齢との間で会談し、合意した。

 12月25日、蒋介石は解放されて、宋美齢、ドナルド、宋子文は張学良を伴い南京へ帰還。張学良は拘禁され、楊虎城はのちに一族郎党全員が処刑された。

 この事件によって、「国共合作」(第二次)が実現し、国民党と共産党、民主諸党派との間で一致団結して抗日戦争に臨むための「抗日民族統一戦線」が合意された。

 事件のあらましは以上の通りだが、西安へ飛行機で到着したときの宋美齢の写真がある。

 チンチラの毛皮のコートを着て、コックとお手伝い、医師を従えての大名旅行で、飛行機のタラップを降りる彼女に手を差し出しているのはドナルドである。

 宋美齢は気丈にも、夫の危機に際して圧倒的な力を発揮し、どのような手段を使ってでも救い出そうとする気迫に満ちている。愛するが故というよりも、自分の所有物を棄損する相手は決して許さないという気概がみなぎっているように見える。それが中国女性の強さの秘密でもあるかもしれない。

 とにかく、蒋介石は宋美齢のおかげで助かった。そしてこれまで以上に頭が上がらなくなったことは想像に難くない。