塚原光男 月面宙返りを生み出した探究心「他の人がやったことのないことを」

AI要約

塚原光男が月面宙返りを披露するまでの道のりと苦労を振り返る。

塚原の練習と挑戦の過程を詳細に紹介し、技の完成までの苦労と成功の瞬間を描写。

月面宙返りが五輪で成功したエピソードやその後の影響について述べられている。

塚原光男 月面宙返りを生み出した探究心「他の人がやったことのないことを」

 パリ五輪に向けたウェブ連載「Messages for Paris」(毎週火曜日更新)の第10回は、世界を驚かせた日本の技として、1972年ミュンヘン大会体操男子鉄棒で塚原光男(76)が披露した「月面宙返り」に焦点を当てる。スポーツ界史上、最も有名な技を手にする原動力となったのは「人がやったことがないことをやりたい」というパイオニア精神だった。(敬称略)

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 月面宙返りのきっかけは、トランポリンだった。1971年初め、塚原が練習していた東京・世田谷区の日体大体育館は、体操部とトランポリン部が共有。当時、体操選手でトランポリンを行う者はだれもいなかったが、「これを体操に生かせないか。他の人がやったことのない新しい技術ができないか」と考え、取り組み始めた。1か月が経過し、簡単なひねりや、宙返りができるようになった。

 その頃、塚原はある演技に目を見張った。すぐには理解できない複雑なもので「ハーフインハーフアウト」という技だった。2回宙返りする間に、半分ずつ体をひねるもので、体操の動きには見られない、2回宙返りの豪快さと、ひねりの華麗な美しさがミックスされた不思議な動きに魅了された。「すごい技だ。この技を体操に取り入れることができたら」と、トランポリンの特訓を始めた。

 このひねりの部分は従来の体操で伸身で行われていたが、「ハーフイン―」では、体を抱え込んだ状態でひねっていた。体操の動きがしみこんでいる塚原にとって「抱え込み」に変えるのは容易ではなかった。来る日も来る日も、その練習に時間を割き、少しずつではあるが、その感覚が身についていった。

 この練習を行っている最中に、塚原は鉄棒で使うことを決めた。「滞空時間を考えると、鉄棒の降り技は1・8秒くらいで、できるかなと思った」トランポリンは真上にジャンプするが、鉄棒ではぐるぐる回って前に向かう遠心力で飛び出す。その違いを実際に鉄棒で体験しながら克服する必要があった。手を離す技術、タイミングがとても難しく、危険も伴う。そのため厚さ20センチのマットを3枚重ねて、着地地点に敷いた。

 後方1回宙返り2分の1ひねりを抱え込みでできるようになったが、ここで大きな壁に直面した。この技で降りてくる瞬間に、目の前に鉄棒が現れるのだ。後半の前方宙返りに移ると「ぶつかるんじゃないか」と恐怖心が襲ってきた。接触すれば大けがにつながる。

 決心はなかなかつかなかった。「やっぱり無理かな」と弱気に何度もなりかけたが「とにかくやってみないとしょうがない」と気持ちは固まった。「練習が終わってみんながいなくなってからやろう」決断できないのは、様々な人が周りにいると、動きが気になることが原因だ、と勝手に自分に言い聞かせた。

 「その日」がやってきた。夜9時頃、練習が終わり、他の部員らはすべて引き揚げた。一人だけ、体育館に戻った。照明をつけた。気持ちが揺るがないうちに、鉄棒に飛びついた。後方宙返り2分の1ひねり、さあ、前方宙返りだ。目をつぶった。尻もちをついたが、鉄棒にぶつかることはなかった。「ああ、大丈夫だ。その瞬間、恐怖を乗り越えた感じで、心臓がバクバクした。震えが止まらなかった」

 最大の山を越えた。次の試技からは目を開けた。今までが噓のように、後方宙返り―前方宙返りが、スムーズにできるようになった。1か月で安定し、最後の2分の1ひねりを入れるのもそれほど時間はかからなかった。もちろん、降り技だけで鉄棒の演技は成立するわけではなく、それまでの10種類の技を組み立てなければならなかった。「結局1年近くかかった」

 月面宙返りの初披露となったのは、ミュンヘン五輪1次予選を兼ねた71年10月の全日本選手権だった。着地で後ろに転がってしまったとはいえ、月面は成功。だが、点数は8・90。当時は10点満点で評価されていたため、大変な低評価となった。と言うのも、審判員にとっては初めて見る演技で成功か失敗かさえ、分からなかったのだ。その後、日本体操協会で議論し、この技を世界に通用するウルトラCと認定した。

 塚原は月面の猛練習を続けた。だが、五輪2次予選、最終予選とも手をつくなど、不成功。五輪本番で一発勝負となった。「練習で10回やったら10回成功できるというところまで来ました。でも、過去の経験から完璧にできていても失敗することもある。だから、つくづく思うんですよ。その時の自分の運の強さというものを。一生懸命やってこそ、ついて来るものでもあるんですが」

 1972年8月29日、ミュンヘンの体操会場は超満員1万人余りの観客で埋まっていた。団体総合は日本のライバル、ソ連を引き離し、4連覇がほぼ確実になっていた。鉄棒が日本の最後の種目となり、そのトリを務めるのが塚原だった。

 前方振り出し―閉脚中抜き1回ひねり―片逆手懸垂―フルターン。「スタートは上々だ」。だが、離れ技、コスミックに移った瞬間だった。飛び越した後、体が遠ざかるような感覚に陥ったが、かろうじて両手がバーに引っかかってくれた。「落ち着け。ここで失敗したら何もかも終わりだ」車輪に勢いをつけ、力を出し切り、一気に飛び出した。後方宙返り―2分の1ひねり―前方宙返り―2分の1ひねり。足がマットに吸い付くように止まった。月面宙返りを初めて成功させたのが、五輪というこれ以上ない大舞台となった。

 拍手が鳴りやまない。体操発祥の地、ドイツの目は、その技のすごさを認めていたのだ。2回、3回と台の上に行き、手を振った。「全然訳分からないから、手を振ったりしたんですけど。あんまり記憶にはないけど、感無量でしたね」

 得点は9・90。当時は10点満点だったが、10点が出ることはなく、事実上、9・90が最高点だった。その後も個人総合、種目別の鉄棒でも月面宙返りを披露。種目別でも再び9。90をマークし、金メダルを獲得。まさにミュンヘンのヒーローとなった。

 76年モントリオール五輪では、梶山広司が「新月面宙返り」を、04年アテネ五輪では冨田洋之が「伸身新月面宙返り」を決め、月面宙返りという大きな幹に、枝葉がつき、現在も進化を続けている。「開発者がいて、それがどんどん進化して、それが今につながっている。それが僕の技の特徴です」月面宙返りの生みの親は、穏やかに笑顔を見せた。(久浦 真一)

月面宙返りの名付け親は不明 他の候補は「忍法フニャフニャ」「木の葉宙返り」

 「月面宙返り」という名称は、国際体操連盟では「ツカハラ」と呼ばれている。この画期的なネーミングはだれが行ったのか、はっきりとは分かっていない。ミュンヘン五輪団体総合で金メダルを獲得した日本チームの記者会見でドイツ人記者から「ツカハラのあの鉄棒のワザは何という名がついているのか」という質問が出たが、遠藤幸雄チームリーダーは「何か、いい名前があったら、つけて下さい」と笑いながら答えている。スポーツ報知の紙面では「宇宙遊泳」と書かれている。

 その2日後の種目別の演技の際には、スポーツ報知は「月面宙返り」とさらりと書いている。この2日間で、だれかが名付けたのか。当時の竹本正男・男子監督が、新聞社などマスコミの記者らに「いい名前はないでしょうか」と尋ねるなどして「月面―」となったという説もある。69年に米国のアポロ11号が月面着陸を達成した直後で、塚原の下りてくる姿勢が、まるで宇宙遊泳をしているように見えたからだとされている。「ムーン・サルト」とも呼ばれているが、なぜかmoon(英語)とsalto(ドイツ語)の合成語になっている。

 当初、「木の葉宙返り」「忍法フニャフニャ」など様々な候補があがったようだが、「月面宙返り」に落ち着いたことに、塚原さんは「自分は全く関与していないし、だれが名付けたかも知らないんです。ただ、一般の方のイメージが月面宙返りという意識になっていることが、ありがたいですよね」と話した。

現在は子どもたちを指導

 〇…塚原さんは、このほど東京・八王子市に自らが代表を務める「バディ塚原体操クラブ」を開校した。この他、世田谷区などでも幼児から体操を教えている。「子供の頃に体操で基本を作っておけば、どんなスポーツにもつながっていく。その中から、体操だけではなくて、様々なスポーツで世界を目指してほしい。そのことに貢献していきたいですね」と塚原さんは、意欲的だった。

 ◇塚原 光男(つかはら・みつお)1947年12月22日、東京・北区出身、76歳。中学から体操を始める。国学院高から日体大―河合楽器。大学在学中の68年、メキシコシティ五輪に出場。男子団体総合金メダルに貢献。76年モントリオール大会でも、団体総合、鉄棒で金メダル。五輪には3大会に出場し、金5個、銀1個、銅3個のメダルを手にした。引退後は、朝日生命クラブで指導者などを務める。妻・千恵子(旧姓・小田)はメキシコシティ五輪代表。長男・直也は04年アテネ五輪で金メダル獲得。日本五輪史上初の父子金メダリストとなった。