第50回大会を迎えた日大付属大会、立ち上げメンバーの南谷光一氏は「この大会が唯一遠くに行ける大会だった」

AI要約

第50回日本大学体育大会(高校の部)サッカー競技会が、日大鶴ヶ丘が初優勝する中、歴史や元監督のエピソードが振り返られた。

開催された第1回大会では日大三島が初代王者となり、現サッカー部など活躍の裏には歴史があった。

日大付属校のサッカー部による大会は進化し、北海道を起点として全国的な大会に成長した。

第50回大会を迎えた日大付属大会、立ち上げメンバーの南谷光一氏は「この大会が唯一遠くに行ける大会だった」

 全国の日大付属校23校(22チーム)が集結し、時の栖(静岡)で行われた令和6年度日本大学体育大会(高校の部)サッカー競技会。節目の第50回大会となった今大会は、決勝で日大高(神奈川)を破った日大鶴ヶ丘(東京)が初優勝を飾った。

 日大付属校のサッカー部による大会は昭和50年(1975年)に第1回大会が開催された。その第1回大会を制し、初代王者となったのは日大三島(静岡)だ。当時の日大三島サッカー部を監督として率いていたのは南谷光一さん。日大三島で37年間監督を務めた南谷さんは、第1回大会からこの大会に関わり続けており、今大会もピッチ脇で試合を観戦した。

 南谷さんは北海道出身。高校時代には岡野俊一郎氏が率いるU-18世代の代表にも北海道出身選手として初めて選ばれた。卒業後は就職が決まっていたが、大澤英雄監督(現・国士舘大理事長)に誘われ、一転して国士舘大に進学。大学卒業後に教員となり、29歳の時に日大三島にやってきた。因みに最初に赴任した札幌創成ではサッカー部を創部させている。

 日大三島でもサッカー部を創った南谷さん。そこへ、陸上でも学校から期待されていた山本昌邦氏(元・アテネ五輪U-23日本代表監督)が入部。そのまま第一回日大付属大会を制した。

 「やっぱり1回大会ですね。チーム数も少なく、コートも狭くて、日大高との決勝戦ではスローインがGKに当たってそのまま入り、1-0で優勝しました。あれが一番の思い出」。

 本部の日大グラウンドなどで行われた第1回大会が今でも一番記憶に残っていると、当時を振り返った南谷さん。参加チームが現在の半数程という規模だったが、「当時の静岡はレベルが高く、東海大会にも出れないので、この大会が唯一遠くに行ける大会だった」。当時は県外に出て試合ができる機会がなく、貴重な機会だった。

 それからも山形、福島、山梨を中心に、色んな場所で開催されてきたこの大会も、東日本大震災の影響で中止となった第37回大会を契機に第38回大会からは時之栖での集中開催に変更となり、現在の大会の姿に。

 「個人的には遠くに行くことが楽しみだった(笑)」と、静岡開催に無念さを滲ませた南谷さんだが、「時の栖で開催できるようになって、グラウンドは土から芝になり、宿の心配もなくなった。本当に素晴らしいことだと思います」と、運営面や安全面などを考えれば、今の形になって良かったと話す。