踊る彼らが一番強く感じ…その上で「一生懸命」 里崎智也がアルプス応援団を見て感じたこと

AI要約

高校球児の真夏の奮闘ぶりに触れ、里崎智也氏が感じたことを紹介。

応援する高校生たちへの否定的なコメントに対する考察。

アルプス応援団の姿から仲間を支える重要性についての洞察。

踊る彼らが一番強く感じ…その上で「一生懸命」 里崎智也がアルプス応援団を見て感じたこと

 甲子園100年の夏の甲子園は、23日に京都国際の初優勝で幕を閉じました。

 日刊スポーツ評論家の里崎智也氏(48)が、高校球児の真夏の奮闘ぶりに接して感じたことを「106回甲子園大会 里崎智也のアルプス応援団を見て感じたこと」としてお送りします。

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 私は高校野球はもちろん大好きだし、私も鳴門工(現鳴門渦潮)で汗と泥にまみれて甲子園を目指し、かなわなかった経験がある。甲子園で必死にボールを追う選手に、スタンドで一生懸命に応援する控えの部員にも、思うところはたくさんある。

 おかげさまで仕事ばかりの毎日で、甲子園大会を毎試合チェックはできないが、動画を配信しているためか、多くの知人からこんな話を聞いた。「滋賀学園のアルプス応援団への否定的なSNSでネットがざわざわしている」と。

 真剣に応援する高校生に向け、あえて否定的なコメントを発信する人たちも、SNSを使う自由があるのは理解している。要約すると「3年間の努力があの応援ではむなしい」という趣旨が多かった。

 現状を具体的に否定するコメントに対し、抽象的に「彼らも頑張っているんだから」「応援で学ぶこともある」などのフワッとした反論は、私にはできない。私は明確に、一切オブラートに包まずに直言する。

 こうした否定的な意見に関連して、私はかすかに感じることはある。それは「強いところよりも、(試合に)出られるところ」という信条に起因する。

 強豪校で甲子園に挑むのは球児の選択だ。一方、私は高校、大学(帝京大)、そして逆指名でロッテ入団を決めた時、常に「強いところよりも出られるところ」の信条に沿って決断した。

 多少弱くても地方大会で試合に出ることもひとつの考え方だよと、これまでも機会があれば学生にアドバイスしてきた。晴れて甲子園出場を決め、それでいてベンチ外となった彼らの心情を思うと、私の考えを殊更に強調してもむなしいこともわかっている。

 そんな感情を踏まえ、アルプスで汗にまみれて懸命に踊る彼らに贈りたい想いがある。

 ベンチ外となり、アルプスに立った野球部員には、それでもいくつかの選択肢はある。悔しいけどみんなと一緒にやれるだけ応援するか、胸の奥のもやもやを抱えたまま暑さに耐えやむなく応援するか、もしくは悔しさも、恥ずかしさも、好奇な目に対する鬱憤(うっぷん)も、すべてをなげうって、ただ心の奥から仲間を一心不乱に応援するか。

 私は時折画面に映し出される彼らの応援を見て、こう感じた。「チームには水を運ぶ人も必要」。サッカー日本代表監督だったオシムさんの言葉が頭に浮かんだ。

 水を運ぶとは、ボールとは直接関係ないところで仲間のためにおとりの動きをして相手をかく乱したり、主力のためにレギュラー以外がサポートに回ったり、スタンドから応援することと理解している。

 アルプススタンドで、オーバーアクションでずっと踊り続け、その様子をカメラで抜かれて一方的な解釈にさらされて、それでも動き続ける彼らは、私には「水を運ぶ人」「仲間のために一生懸命になれる人」に見えた。

 もし、私が企業で採用担当者であれば、こうして今、与えられた場所で、納得いかなくても、自分たちができることを最大限、一生懸命にやり続ける人材は絶対に採りたい。例えば10人採用できるなら、1~2人はチームのために動ける人材を同僚として迎えたい。

 「3年間の集大成がこれでは寂しくないか?」という指摘に、私は誰もが思う言葉を強く返す。「踊る彼らが、それは一番強く感じている。その上で一生懸命に踊っているんだ」と。

 パリ五輪でも選手への批判的な発信が問題になった。自分の不遇を他者にぶつけたいのも、人間の持つ影の部分だろう。それに対して「リスペクトを!」などと優しくいさめても、ネガティブ発信者には響かないと感じる。

 私は「水を運べる」彼らに社会に出てからも同じように「水を運んだり」、もしくは「メインで輝ける」可能性を見る。8強まで勝ち進み、渾身(こんしん)の踊りを貫いたアルプスの若者に、これからの進路でも、幸多かれと、願う。(日刊スポーツ評論家)