戦力外で急遽“SOS” 関西から名古屋→東京直行も…まさかの「帰っていいよ」

AI要約

山口重幸氏が現役時代の経験を振り返りつつ、阪神、ヤクルトでのプレーについて語る。

山口氏が内野手に転向した経緯や、復帰の苦労について明かす。

島野育夫さんへの感謝と助けを得て、再びプレーの機会を求める山口氏の姿が描かれる。

戦力外で急遽“SOS” 関西から名古屋→東京直行も…まさかの「帰っていいよ」

 球児たちにも「ノムラの教え」を知ってほしい。現役時代に阪神、ヤクルトで活躍した山口重幸氏が、今年4月1日付で東京・岩倉高の野球部コーチに就任している。1984年センバツで甲子園優勝を果たした山口氏は秋のドラフト会議で阪神から6位指名を受け、プロ野球の扉を開いた。

 岩倉高では投手だったが「自分で評価するとしても武器がなかった」と振り返るように、入団直後から内野手に転向。「投手に未練はありませんでした。ただ、外野手だと思っていたら、内野手だったので、そこには葛藤がありましたね(笑)。18歳から全く夢が見れなかったんです、あのメンバーでは」。腕組みをして、当時を振り返った。

 山口氏が入団した1985年、阪神は日本一に輝いた。一塁から順番に「バース、岡田、真弓、掛布……。え、なにこれ? と思いましたよ」と表情を柔らかくする。「結果的にプロの世界で長くプレーできたので、内野手になるという選択肢は間違ってなかったと思います」。主に出場機会が増えたのは、ヤクルトに移籍した1995年だった。

「プロ8年目のオフ(1992年)に膝の手術で1年間、野球ができなかったんです。1年リハビリ生活だと。僕は『クビになるから我慢してプレーを続けます』と言ったんです。すると、球団から手術の許可が出たんです。有り難かったです。リハビリも含めて1年かかって、10年目(1994年)の9月に2軍でようやく復帰ができたんです。そしたら、そのオフ『10年やらせてあげたのでクビ』だと言われたんです」

 まだグラウンドに立ちたかった。「そりゃないよ……と。一生懸命リハビリして復帰したのに。『あと1年だけやらせてください』とお願いしたんですけど、ダメでした」。ふと頭に浮かんだ存在がいた。阪神でコーチを務めていた島野育夫さんが、中日の2軍監督に就任していた。

「当時、可愛がってもらっていたんです。『何かあったら電話してこい』と家の電話番号をもらっていた。連絡してみたら『テスト、受けたいのか……? 1回、名古屋に来い』と言ってくださったんです」