残された弟は、警察の陰謀だと主張した…夭折した天才数学者ガロアの短くも、じつに「波乱万丈すぎる」生涯

AI要約

フォール・デ・フランスの激動の時代に生まれた数学の天才、エヴァリスト・ガロア。17歳で数学界に衝撃を与え、時代を超えて影響を残した彼の生涯と業績。

ガロアは母親から教育を受け、高等中学校で学ぶも数学に触れる機会がなかったが、第3学級で数学と出会い、その才能を開花させる。

伝説によれば、たった2日で通常2年かかるという重要書を読み通したガロア。数学への情熱と才能を示すエピソード。

残された弟は、警察の陰謀だと主張した…夭折した天才数学者ガロアの短くも、じつに「波乱万丈すぎる」生涯

ナポレオン・ボナパルトがノートルダム大聖堂で自ら戴冠して皇位に着いたのが1804年のこと。しかし、1812年のロシア遠征に始まるナポレオンの没落は、結果的に王政の復古をもたらしました。しかし、それも束の間、1830年の7月革命による立憲君主制を経て、やがて共和制を求める動きが民衆のあいだから生まれてきます。19世紀前半のフランスは、じつに「激動の時代」そのものでした。

そのような激動のフランスに生まれ、激動のなかに散った革命的な数学の天才が、エヴァリスト・ガロア(1811~1832)です。弱冠17歳、数学に出会って3年の若者が提出した論文が、「革命」と呼ばれ、時代を超えて、いまなお、大きな影響をおよぼしています。

いったい彼は、何をして、何をのこしたのでしょうか? 早熟の天才といわれる彼の思考を、平易に解き明かす『はじめてのガロア』に見てみましょう。先の回でご紹介したガロアの生涯を、もう少し詳しく見ていきます。

※この記事は、『はじめてのガロア 数学が苦手でもわかる天才の発想』の内容を再構成・再編集してお届けします。

エヴァリスト・ガロアは1811年10月25日、パリ近郊のブール・ラ・レーヌで生を享 (う)けた。

父親は公立学校の校長を務めており、のちに町長になる。高潔で温厚な人柄で、人々から慕われていた。現在、ブール・ラ・レーヌには「ガロア通り」「ガロア広場」など、ガロアの名を冠した地名が存在するが、エヴァリストを称えてのものなのか、父親にちなんだものなのかは、いまとなってははっきりしないという。

ガロアは幼年時代、母親の教育を受けた。ガロアの母親はラテン語から古典文学にまで通じた教養あふれる女性で、幼年時代のガロアは申し分のない教育を受けることができた。しかしその教育の中に、数学は含まれていなかった。

そして11歳になったガロアは、パリの名門高等中学校の第4学級に入学し、寄宿生活をはじめる。しかし、当時の高等中学校では数学は必修でなかったので、ここでもガロアは数学に接することはなかった。

最初は優等生であったガロアは、どういうわけか第2学級で成績不振に陥り、落第してしまう。ところが、人間万事塞翁が馬、2度目の第3学級でガロアは、数学と運命的な出会いを果たす。

どのようにして数学に触れるようになったのかはわからない。2度目の第2学級で、同じことを繰り返すのに飽きて、新しい数学という分野に飛び込んだのかもしれない。伝説によれば、普通は読み通すのに2年はかかるというルジャンドルの『幾何学原論』を、たった2日で読んでしまったという。