敵国の潜水艦を探知 「津軽海峡に侵入されたら、北海道と本州が遮断される」

AI要約

小泉敦さんが訪れた小泊防備衛所は、人里離れた立地だったため保存されており、戦争の痕跡として特筆される存在である。

防備衛所は潜水艦の警備拠点として重要な役割を果たしており、元地元兵士の磯野與三郎さんが唯一の兵士として任務に就いていた。

記事には食糧運搬のエピソードや、米国の飛行士達がスパイ行為を疑われた事件など、戦時中の秘話が記されている。

敵国の潜水艦を探知 「津軽海峡に侵入されたら、北海道と本州が遮断される」

 「全国に数多く残る戦争の痕跡の中でも、残存状況において特筆されるものでは。人里離れた立地だったからこそ、壊されずに残ったのだろう」

 小泊防備衛所に足を踏み入れた小泉敦さん(64)=青森県五戸町=は驚いた。元中学校長で本県の地域史に詳しい。

 戦後79年。戦争を知る世代がずいぶん少なくなった。戦争を伝える主役は「ひと」から「もの」へ移ろうとしているが、だからこそ今、急がねばならない。戦時に造られた構造物が取り壊されたり朽ちていったりする前に、現地を訪ね、関係者から話を聞き、記録に残していこう-。

 そんな思いで、小泉さんと取材班は、青森県内各地を巡る企画に取り組むことにした。

 小泊防備衛所は下見を兼ね、5月末に現地を目指した。まず中泊町小泊支所に立ち寄った。阿部弘喜支所長は地図を示しながら「地元の人も行かない場所。大変な道ですよ。マムシに気をつけて」。

 海沿いをひたすら歩く。自然歩道は、途中から跡形もない。岩の崩落を受けたのだろうか。2時間ほどで、ようやく標高85メートルの丘の上に立った。

 防備衛所はコンクリート製、3階建てのような構造だった。天井は低く、かび臭い。

 1部屋はそれぞれ、学校の教室を少し小さくしたような広さだった。

 窓を数える。入り口のある1階は四つ。2階には十。3階には六つ。日本海に突き出した丘から周囲の海を見渡せた。

 30人が詰めて任務に当たったが地元の兵士はただ一人だったという。2015年に97歳で亡くなった元小泊村議会議長、磯野與三郎さんだ。

 磯野さんはかつて、東奥日報の取材に答えている。

 「潜水艦が津軽海峡に侵入しないよう警備していた。もし侵入されでもしたら北海道と本州が遮断され、日本は孤立する。その意味で重要な所だった」(1994年8月11日付夕刊)

 増幅器につながれたレシーバーを耳に当て、海に設置した聴音機から発せられる振動音をキャッチしていた。潜水艦が近づくと分かる仕組みだったという。

 防備衛所には今も、磯野さんらが使用したであろう配電盤などが無造作に捨てられたままだった。兵士たちが強いられた緊張が伝わってきた。

 この夕刊記事には、防備衛所に食糧などを船で運んだ地元の男性の証言もあった。軍との契約書には「建物内部のことは絶対他人に言ってはならない」などの条文があったという。

 ほかにも取材を進めると、興味深いエピソードに突き当たった。

 31年10月、三沢市淋代海岸から米国へ、太平洋無着陸横断飛行に成功したミス・ビードル号だ。

 同年8月に日本へ飛来した際、北海道から津軽海峡、下北半島などの上空から撮影したフィルムに津軽要塞(ようさい)と呼ばれた軍事機密地帯が写っていたことから、ハーンドン、パングボーンの両飛行士が一時、都内のホテルに準拘束のような形での滞在を強いられていた。スパイ行為を疑われたのだ。

 軍事施設が点在する津軽海峡や青森県周辺は国防上、秘密のベールで覆われた一帯であったことを物語る出来事であった。

 この9年後の40年、国際的な緊張が高まっていく中で小泊防備衛所が設置された。翌41年12月8日、太平洋戦争に突入する。

 今回の連載は、やはり終戦の8月に始めようと決めた。79回目の夏を迎えた姿を撮影しようと、取材班は再び権現崎を目指した。

 濃く生い茂る雑草と厳しい暑さに、近づくことを拒まれた。丘に登ることは断念し、ドローンを飛ばすとカメラが廃虚と灯台を捉えた。青い海原に、一隻の漁船が白い航跡を延ばしていった。