柳ケ瀬の復興見守った「弥八さん」 岐阜空襲後建立された巨大地蔵 

AI要約

柳ケ瀬の復興を支えた“弥八地蔵”の歴史。岐阜市の繁華街に建てられた高さ10メートルの地蔵は愛されたが、老朽化のため解体された。

地蔵は安産や子どもの成長を願う「子安地蔵」として知られ、戦後の岐阜市の活気を象徴していた。

現在も境内に安置された弥八地蔵は親しみやすい笑顔を浮かべ、柳ケ瀬のにぎわいを祈り続けている。

柳ケ瀬の復興見守った「弥八さん」 岐阜空襲後建立された巨大地蔵 

 岐阜市の繁華街・柳ケ瀬は、太平洋戦争末期の岐阜空襲による焼け野原から急速に復興を遂げた。そんなときに柳ケ瀬に現れ、人々を優しく見守ったのが“弥八さん”。終戦から5年後の1950年、岐阜市弥八町の若宮町通り沿いに建てられた、高さ約10メートルの「弥八地蔵」だ。地域のシンボルとして愛されたが、90年前半に老朽化のため取り壊された。まちを見守った弥八地蔵の歴史を探った。

 「慈悲のある優しいお顔立ちだった。なくなったときはさみしかった」と語るのは、弥八地蔵がある誓安寺の境内で料理店「丸じゅん」を営む安立末江さん(76)。境内で58年、店を切り盛りしてきたという。「柳ケ瀬に住む人が銭湯帰りに夕涼みに来たり、縁日目当ての子どもが来たりしていた」と当時の境内の様子を振り返る。キャバレーや飲み屋が近いこともあり、客との待ち合わせをする女性もいたという。

 寺は、かつては伊奈波通にあったが、1916(大正5)年に現在の若宮町通り沿いの同市弥八町に移転。45年7月の岐阜空襲では寺も大きな被害を受けた。その後、戦後復興で活気づく地域の協力もあり、寺の山門の上に巨大な「弥八地蔵」が建てられた。

 75年8月の岐阜日日新聞(現岐阜新聞)によると、地蔵は劇場の舞台を作った経験があった市内の柴田光治郎さんが設計施工を担ったとある。造りは中が空洞で、コンクリートが塗られていたという。

 新聞の写真の弥八地蔵は、優しい表情で胸に赤ん坊を抱き、足元にも子どもらが寄り添う。安産や子どもの成長を願う「子安地蔵」だった。完成当時は周辺にまだ高いビルもなく、巨大な地蔵は岐阜駅からも見えた。しかし、老朽化で93年に解体が始まり、翌年に現在の山門が建った。

 その姿は今となっては写真でしか拝むことができないと思っていたが、実は“弥八地蔵”は今も境内にある。滝清和住職(64)が案内してくれた。山門をくぐると、たくさんの地蔵が参拝者を出迎える。その中でも、弥八地蔵は立派な地蔵堂の中に安置されていた。

 この弥八地蔵は、織田信長の家臣の子、弥八郎が過去の罪を悔いて作らせたと伝わる。寺が若宮町通り沿いに移るのと一緒に弥八郎の地蔵も現在の場所にやって来て、歓楽街として活気づく戦前の柳ケ瀬でも親しまれた。しかし、岐阜空襲で体はばらばらに。頭だけが残された状態となり、戦後に体が作られたという。

 滝住職は「地蔵の供養は、みんなが来てくれてにぎやかに集うこと」と話す。地蔵堂に安置された弥八地蔵は、戦後に建てられた弥八地蔵とは異なる顔つきではあるが、赤い頭巾の下でやはり優しくにこやかな笑みを浮かべ、柳ケ瀬のにぎわいを祈っているようだった。