女性の叫び声、帰らない父親…長崎大水害きょう42年 市民の記憶に残る被害

AI要約

長崎大水害と諫早大水害の体験談が語られ、被災者の恐怖や勇気が伝えられる。

長崎市や諫早市での水害の悲劇が明らかになり、家族の絆や助け合いの大切さが示される。

被災者やその家族の思いが今も語り継がれ、当時の出来事が忘れられない記憶となっている。

女性の叫び声、帰らない父親…長崎大水害きょう42年 市民の記憶に残る被害

 299人の死者・行方不明者を出した長崎大水害から23日で42年。25日には、630人が犠牲となった諫早大水害から67年を迎える。あの日、目にした状況がどのように語り継がれているのか。長崎新聞の情報窓口「ナガサキポスト」のLINE(ライン)で募集したところ、多くの人が回答を寄せてくれた。その一部を紹介する。

 父が消防団員だった長崎市多以良町の野口亜希子さん(55)は、両親が出張で家にいない時、長崎大水害の大雨に襲われた。当時、中学2年。同市今博多町の市消防団第6分団の管理人だった父に代わり、消防から出動要請のホットラインを受けた。

 「助けてください」-。受話器の向こうから女性の叫び声が聞こえ、職員の切迫した口調に「何が起きているか分からなかった」。今までにない恐怖を感じた。サイレンを鳴らし、団員が集まったようだが、近くの電車通りはひざの高さまで泥水が迫っていた。その後、分団の管理室の2階で3歳下の妹たちと身を寄せ合い、一夜を明かした。

 西彼長与町の40代女性は当時、小学1年だった。長崎市矢上町で働いていた父がなかなか帰って来なかった。「こんなに不安な思いをしているのに、なんで帰ってきてくれないの」。数日間、帰宅を待った。

 後に母から聞いた話によると、矢上町の被害は市内でも大きく、父は浸水したバスの上で身動きが取れなくなっていた乗客を歩道橋の上から救助したという。女性が小学6年の時、父は病気で亡くなったが、そんな父を今でも誇らしく思い、あの日の体験とともに子どもに語り継いでいる。

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 諫早大水害後に生まれた諫早市の60代女性は、義母から聞いた体験談を話してくれた。自宅は被害が大きかった本明川近く。次々と家が流され、親戚が何人も亡くなったという。流されていく家屋、助けを求める声-。「どれほど恐ろしい夜だったのだろう」

 当時1歳だった同市幸町の登繁信さん(68)。父が旧国鉄職員だったため、同市長田町の肥前長田駅近くの官舎に住んでいた。雨がひどくなり、父は線路の様子を見るため、駅の詰め所に向かった。

 母と3歳上の兄が残っていた官舎の中に泥水が流れ込んできた時、駅員が助けに来てくれた。首の辺りまで泥水が押し寄せる中、駅員に抱かれて駅へ避難。そのまま翌朝を迎えた。汽車が走る線路はぐちゃぐちゃに崩れていた。官舎は住めなくなるほど泥水に浸り、その後1カ月ほど、被害が少なかった親戚の家を転々としたという。

 現在、89歳の母が繰り返し話してくれた水害の記憶。登さんの脳裏に深く刻まれている。