【熊本市電100年 大正から令和、走った2億キロ㊤】近代都市交通の花形、市民が熱狂

AI要約

熊本市内で100年前に開通した路面電車の歴史について紹介。

開通当日の祝賀ムードや乗客の増加、戦時中の運行状況、空襲への対応などが振り返られる。

市電の歴史を通じて、熊本市民にとっての重要性や復興時期の働きも語られる。

【熊本市電100年 大正から令和、走った2億キロ㊤】近代都市交通の花形、市民が熱狂

 「お急ぎの方はどうぞお歩きください」

 100年前の1924(大正13)年8月1日、近代都市交通の花形だった路面電車が「森の都」熊本市で運行を始めた。待望の市電登場に乗客は超満員。停留所には長い行列ができ、冒頭の言葉が流行語になるほどだった。

 運行は、熊本駅前─浄行寺町間、水道町─水前寺間の計6・9キロで始まった。「熊本市営交通60年のあゆみ」(熊本市交通局刊)によると、当日の開通式には1500人が参加。花電車が一日中走り、千人が市内を踊り回るなど、お祭り騒ぎだったという。

 8月2日付の九州新聞(熊日の前身)には、「歓喜に輝く十三万市民」の見出しとともに、「十三万の市民は、全く夢中で、輝かしい、盛夏の陽の下に、仮装行列や俄[にわか]踊や唯[ただ]もう我を忘れた熱狂ぶりである」と伝えた。

 同日付の九州日日新聞(熊日の前身)は始発電車に乗車した記者のルポを掲載。大江の車庫から出庫する様子や、詰めかけた大勢の乗客への対応で疲れ果てた車掌の様子などを、満員の乗客の写真とともに報じている。

 熊本市民の大きな関心を集めた市電開業。以降、建設の陳情が市内各地から相次ぎ、「経営の先行き不安から運動を抑えるのに苦心した」(熊本市電三十年史)という。29年までに浄行寺町から子飼橋、辛島町から段山町や春竹駅(現在の南熊本駅)前などまで延伸した。

 37年に日中戦争が始まると、市民の足は市電に集中する。燃料不足のため木炭を使うようになったバスは、運行台数が少なく故障も頻発。市電への市民集中に拍車をかけた。増えた乗客と戦時の電力不足のため、各駅停車しない「急行」まで登場した。

 軍への召集が進むと、乗務員不足にも陥った。このころ、女性の車掌と運転士が登場。終戦後、男性の復員が本格化するまで活躍した。51年までに一時姿を消した女性運転士が再び採用されたのは、92年のことだった。

 45年には、熊本市内でも米軍による空襲が始まった。空襲警報が鳴ると、乗務員が乗客を近くの防空壕[ごう]まで誘導する命懸けの勤務。7月の熊本大空襲では、「電車通りは火の海」(熊本市営交通60年のあゆみ)となった。

 空襲による交通局の建物や車両への直接的な被害はなかったが、架線は各地で断線。電柱も焼失した。市電の運行は不可能となり、従業員の多くも被災。終戦の日を迎えることとなった。

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 熊本市電が開業して8月1日で100年を迎える。戦後の復興期の躍進、自動車普及による利用者の減少、全線廃止の危機─。これまでに延べ2億1300万キロを走り、17億4300万人を運んできた熊本市電の歴史を振り返る。(九重陽平)