妻子4人焼いた《すべなし地に置けば子にむらがる蠅》自由律俳人・松尾あつゆきさん 被爆79年
長崎原爆の日を前に、長崎市の県立長崎図書館郷土資料センターで「戦争・原爆と長崎の文学」展が開催され、80点の文学資料が展示されている。
展示されている作家の1人、自由律俳人の松尾あつゆきさんの生涯や被爆経験、作品に焦点を当てて紹介。
松尾あつゆきさんは原爆投下時41歳で家族を失った悲劇を経験し、その体験を詩に綴り続ける。
8月9日「長崎原爆の日」を前に、長崎市の県立長崎図書館郷土資料センターで「戦争・原爆と長崎の文学」展が始まった。長崎ゆかりの著者が記した文学資料およそ80点が展示されている。
取り上げられている1人、自由律俳人の松尾あつゆきさん。
県内に住む孫の協力で作品や日記などが紹介されている。
【松尾あつゆき(本名:敦之)さん】1904年~1983年没
長崎県北松浦郡佐々町生まれ。英語教師。
24歳の時、自由律俳句「層雲」に入門。
23歳の時に結婚し4子に恵まれた。
1945年8月9日、長崎に原子爆弾が投下された時は41歳だった。
自身は爆心地から4キロほど離れた大浦の職場にいたが、家は爆心直下となった城山にあった。
4歳の長男と7か月の次女は爆死していた。
大やけどを負って倒れていた12歳の長男も、翌日目の前で亡くなった。
あつゆきさんは3人の子どもに自ら火をつけ火葬した。
《すべなし地に置けば子にむらがる蝿》
《あわれ七ヶ月のいのちの、はなびらのような骨かな》
妻・千代子も被爆5日後に死んだ。8月15日、妻に火をつけた。
ラジオから君が代が聞こえ、涙がとめどなく流れたという。
《炎天、妻に火をつけて水のむ》
《なにもかもなくした手に四まいの爆死証明》
《涙かくさなくてもよい暗さにして泣く》
15歳の長女は、学徒報告隊として動員されていた三菱兵器製作所茂里町工場で被爆、顔や首・両手に大やけどを負ったものの生き延び、あつゆきさんは長女と2人で佐々町に転居。45歳の時には長野県に移住し、高校の教師をつとめ、定年後に長崎に戻った。
寡黙だったというあつゆきさん。
生前、原爆について周囲に語ることはあまりなかったが詩は作り続けた。
1967(昭和42)年
《わが傷はわが舐めるほかなしけもののごとく》
1971(昭和46)年
《子のほしがりし水を噴水として人が見る》
1971(昭和48)年
《ゆるせ子のゆきし日の暑さとて水のむ》
被爆30年を迎えた1975年、NBCのインタビューに松尾あつゆきさんはこう語っている。