【特集 ザ・作州人】 「あいしあってるかい?」 サウンドクリエーター取締役・中原裕志さん

AI要約

中原裕志さんは日本の音楽シーンで長年活躍してきたイベント会社の取締役であり、コンサートのプロデューサーでもある。

彼は清志郎さんの影響を受けて音楽業界に進み、RCサクセションのコンサートをきっかけに音楽活動に打ち込む決意をした。

津山高時代から音楽活動を始め、立命大でのライブハウスアルバイトを経てサウンドクリエーターに入社し、コンサート運営に携わってきた。

【特集 ザ・作州人】 「あいしあってるかい?」 サウンドクリエーター取締役・中原裕志さん

 今回の「ザ・作州人」は長年に渡って、日本の音楽シーンに携わってきた中原裕志さん(61)に登場してもらった。関西を代表するイベント会社「サウンドクリエーター」でコンサートの企画、運営をこなし、現在は取締役。それに飽き足らず「HAPPYHEADS MUSIC」の代表としてコンサートのプロデュースも手掛ける。この道を選んだ運命の日、故郷津山の復活プランを語ってもらった。

 いまも現役バリバリだ。いかにも業界人といった風情。中原さんはラフな格好でひょいと現れ、笑顔でその場を和ませてくれた。

 「さっきまでBEGINと一緒にいて、打ち合わせをしてました」

 2歳上で高校、大学の先輩。しかし、ぱっと見はもっと若い。

 「最近、外国人に高校生と間違えられましたよ」。そう言って、また笑顔を浮かべた。

 その風貌は、どこかロック歌手で2009年に58歳で他界した忌野清志郎さんを思わせる。それもそうか。清志郎さんはこの道に入るきっかけとなった憧れの人だ。中原さんが切り出した。

 「1981年4月24日、金曜日。岡山市立市民文化ホールでRCサクセションのコンサートを観て、こういう仕事に就くんだと決めました。感性が凄い人。僕は1人じゃない、と救われたし、衝撃を受け、あの人に近づきたいと思った。以来、ずっとこの髪形です」

 津山高ではバンドを組んでおり、音楽の下地はあったが、当時は浪人生活を始めた不安な時期。ときに過激な言葉で世相を斬りつつ、弱者へのいたわりも忘れない作風と切ない声に中原さんがハマったのも当然だったか。しかも「一緒に行った彼女がいまの奥さん」と聞き、なんてドラマチックなんだと、こちらの胸までじわっと熱くなった。

 立命大ではライブハウスでアルバイト。そこから流れるようにイベント会社のサウンドクリエーターに入社し、コンサートの運営に携わった。特にRCサクセションとは深い関係を築き、2000年代には大阪城ホールで開催され、いまや伝説となった「ナニワサリバンショー」を演出。清志郎さんからは絶大な信頼を得て、なんと大阪の街を2人でドライブする仲にまでなった。