<偉人の愛した一室>絢爛豪華な社殿と質実な舞殿 観阿弥が生涯最後に舞った静岡浅間神社

AI要約

静岡浅間神社は東照宮を併せ祀る複数の神社を含んだ総称であり、豪華な社殿や歴史的な舞台を持つ。

猿楽の創始者である観阿弥が浅間神社で猿楽を奉納し、武家社会に芸能を広めた歴史が残る。

浅間神社は江戸後期に再建された建造物であり、観阿弥の時代の構造を伝える質実な建築が特徴的である。

<偉人の愛した一室>絢爛豪華な社殿と質実な舞殿 観阿弥が生涯最後に舞った静岡浅間神社

 徳川家康を祀る東照宮は数多い。名高いのが日光東照宮と久能山東照宮だが、これに劣らず絢爛豪華な社殿を誇るのが静岡浅間神社である。

 実はこのお宮、神部神社、浅間神社、大歳御祖神社を総称してこの名がある。さらに、広い境内には八千戈神社他4社が建ち、7社に30以上もの神社が合祀されているのだ。

 江戸期に東照宮を併せ祀ったのは神部神社だった。明治になり、江戸にあった東照宮が幕臣とともに駿河に移り、八千戈神社に合祀された。境内に2つの東照宮が鎮座するのは全国でここだけというから、家康との関係の深さがうかがわれる。それについては後述する。

 足利将軍家の一族である今川氏が駿府、いまの静岡市に入ったのは1336(建武3)年である。初代の範国から義元、氏真まで10代、230年に渡って繁栄を誇り、今川館では能や連歌が盛んに興行されて都の文化が根付いていった。応仁の乱で京が荒廃した後には、公家や文化人が逃れてくることにもなるのだが、初代の頃にこの地に来訪し、境内で能(その頃は猿楽と呼ばれた)を演じたのが、かの観阿弥であった。

 奈良時代に中国から伝来した舞楽が、次第に滑稽な所作やセリフを主とした芸能へと変化していったのが猿楽である。中世になると各地に座が生まれて多様な芸を育んでゆくが、中でも、大和四座と呼ばれた一団が質の高い芸を誇っていた。中から生まれ出たのが観阿弥である。

 観阿弥は、滑稽味を主とした猿楽に、当時流行していた田楽や曲舞から音楽性やドラマ性を取り込み、自由闊達な芸風を切り開いてゆく。さらに、父を超える才能を讃えられた息子の世阿弥によって劇的要素が高められ、猿楽は深い境地へと昇華されていった。三代将軍足利義満は2人の芸を何より愛し、その後も室町将軍家の庇護を得て、猿楽は武家社会に深く浸透してゆくのだ。

 1384(元中元)年、今川範国の求めに応じて来訪した観阿弥は、浅間神社の境内、舞殿で猿楽を奉納する。スター一座の興行に駿府はさぞ沸いたことだろう。

 浅間神社はいまも、修築や再建を重ねつつ、古からの構造をそのまま伝承する。総門、楼門、大拝殿の順に並び、さらにその奥が本殿となるのだが、これらの建物はすべて左右対称に造られ、中心線を境に神部神社と浅間神社が棲み分ける構造になっている。

 楼門と大拝殿の間、周囲を回廊によって囲まれた中央に建つのが今回の舞台、舞殿である。他の建造物は総漆塗、極彩色の装飾が施されるきらびやかな中、そこだけ中世が甦ったかのような質実な建築だ。

 案内してくださった権禰宜の宇佐美洋二さんによれば、

「現在の建築はすべて江戸後期に再建されたもの。舞殿も徳川の世を寿ぐ彫刻で飾られてはいますが、10本ある柱の他、構造は観阿弥のころと同じです」

 観阿弥の演能は5月4日、流鏑馬神事の前日に行われた。だが、わずか15日後に当地で客死したと、世阿弥は『風姿花伝』に記す。しかも、同じ日、観阿弥を招いた今川範国が死去する。2人に一体何があったのか、どこにも書き遺されていないと、宇佐美氏は話す。あたかも幻を観たような劇的な結末は、観阿弥によって演出されたかのようだ。