秀忠・家光を不快にさせた京極忠高の「不義理」

AI要約

京極忠高は徳川家と豊臣家と縁戚関係のある室町の名門であり、家柄にはネガティブなイメージも存在する。

忠高は死後に嗣子無しとなり、播磨龍野への減転封が決定される。その背景には徳川家への「不義理」が関係している可能性がある。

京極家は佐々木氏信を祖とし、足利尊氏の元で四職を務めるなど由緒ある家柄であり、戦国時代の動乱から織田信長、豊臣秀吉、徳川家との関わりを持つ。

秀忠・家光を不快にさせた京極忠高の「不義理」

■室町の名門であり徳川家の娘婿である京極忠高

 京極忠高(きょうごくただたか)には、父高次(たかつぐ)が豊臣秀吉の側室となった妹の竜子(たつこ)のおかげで大名として取り立てられた家系という、ネガティブなイメージがあるかもしれません。高次は、陰で「蛍大名(ほたるだいみょう)」などというあだ名も付けられていました。

 京極家は室町幕府の四職を務めた由緒ある家柄であり、父高次が浅井三姉妹の初、後の常高院(じょうこういん)を娶(めと)り、豊臣家と徳川家と縁戚関係があります。さらに忠高自身も、徳川秀忠(ひでただ)の娘を娶り徳川家の一門衆に準ずる存在です。

 しかし、忠高の死後、京極家は嗣子(しし)無しとして播磨龍野6万石に減転封されます。これには忠高が起こした徳川家への「不義理」が関係していたかもしれません。

■「不義理」とは?

「不義理」とは辞書によると「義理を欠くこと。義理に背くこと。また、そのさま」とされています。

「義理」とは「物事の正しい道筋。また、人の踏み行なうべき道。道理」や「職業、階層、親子、主従、子弟などのさまざまな対人関係、交際関係で、人が他に対して立場上務めなければならないと意識されたこと」とされています。つまり、「不義理」は、「人としての道理を守らない。立場上努めなければならないことを怠る」という意味となります。

 徳川家の縁戚でありながらも、忠高は妻に対して義理を欠く行動を取ります。

■京極家の事績

 京極家は鎌倉時代に北近江を継いだ佐々木氏信(ささきうじのぶ)を祖としています。足利尊氏(あしかがたかうじ)の元で活躍した佐々木道誉(どうよ)が数カ国の守護となり室町幕府を支える四職となっています。

 家臣の浅井氏が勢力を拡大したことで、京極家は北近江での実権を失い、祖父高吉の頃に織田信長の傘下に入ります。

 1582年の本能寺の変において明智光秀の誘いに乗り父高次は秀吉と対立しますが、秀吉の側室となった竜子の嘆願により許されて近江高島2500石で仕える事になります。

 1587年に高次が常高院を正室に迎えたことで、後々、淀殿(よどどの)が豊臣秀頼(ひでより)を、お江(ごう)が徳川家光(いえみつ)を産み、京極家は両家と縁戚関係を持つことになります。そして九州征伐や小田原征伐での功績などにより、1595年には近江大津6万石となります。

 関ヶ原の戦いでは西軍から東軍へと寝返り、大津城で毛利元康(もうりもとやす)や立花宗茂(たちばなむねしげ)の足止めに成功した功績により若狭一国8万5000石を与えられ、国持大名となります。

 そして、大坂の陣での活躍やこれまでの奉公を評価され、毛利家の抑えとして出雲隠岐2ヶ国26万石の国持ち大名となります。

 しかし、忠高が死去すると、京極家は播磨龍野6万石へ減転封されてしまいます。