赤穂四十七士の行動は決して無駄ではなかった…一度は廃城にされた赤穂城が「日本屈指の復元城」になるまで

AI要約

赤穂城の歴史をたどると、浅野長矩による刃傷事件に始まり、城の明け渡しまでの出来事が明らかになる。

赤穂城は、甲州流軍学に基づき建造された個性的な城であり、浅野家が改易されるまで続いた。

龍野藩が赤穂城を受け継ぐ過程での出来事も詳細に紹介されている。

天守が現存する城は全国に12しかない。それ以外の城の「歴史的価値」は無いのだろうか。歴史評論家の香原斗志さんは「例えば、兵庫県にある赤穂城は、明治時代に廃城となったが、地元の努力で整備が進み、城全域が往時の姿を取り戻している」という――。

■「忠臣蔵」の前にあったもうひとつの刀傷事件

 将軍の居所である江戸城内で刀を抜くことは、固く禁じられていた。ましてや江戸城の中枢である本丸御殿の松之廊下でのできごとだから、申し開きの余地はなかった。

 元禄14年(1701)3月14日、京都から下向した勅使の接待役だった、播磨国(兵庫県南西部)赤穂(赤穂市)の藩主、浅野内匠頭長矩は、高家(儀式や典礼を司る役職)である吉良上野介義央に斬りつけた。長矩はすぐに一関(岩手県一関市)藩主の田村家に預けられ、即日切腹を命じられて、浅野家は断絶となった。

 その後、家老の大石内蔵助義雄を中心とする四十七士が、吉良を斬って主君の仇を討ったことは、よく知られる。現在も赤穂城の三の丸には、旧大石邸の長屋門が残り、主君の刃傷事件を伝える早籠が到着して、その門扉を叩いたと伝えられている。

 だが、じつは赤穂城主による刃傷事件は、浅野長矩がはじめてではなかった。

 慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後、播磨52万国の太守になって姫路城(兵庫県姫路市)を本拠地とした池田輝政は、一族の池田長政を赤穂に置いた。輝政の死後、赤穂は、備前(岡山県南東部)に25万石をあたえられ岡山城(岡山県岡山市)を居城とした輝政の次男忠継の所領になり、忠継が没すると、輝政の五男の政綱に分与された。

 3万5000石をあたえられて赤穂藩を立てた池田政綱だったが、世継ぎがなかったので弟の輝興が相続した。ところが、正保2年(1645)に、この輝興が乱心して正室のほか侍女数人を惨殺。岡山藩にお預けとなり、所領を没収されている。

■完成してちょうど40年で明け渡し

 このときまで、赤穂城は簡略な城だったと考えられている。池田輝興に代わり、5万3500石の領主として赤穂に入封したのは、浅野長矩の祖父で、常陸(南西部を除いた茨城県)から移封になった長直だった。長直は、東は千種川、西と南は播磨灘に面した地に、まったく新たに城を築いた。

 築城にあたっては、甲州流の軍学者であった近藤正純が縄張りを担当。このため、寛文元年(1661)に完成した赤穂城は、武田信玄の戦術を理想とする甲州流軍学に裏打ちされ、石垣が複雑に屈曲を重ねる、きわめて実践的かつ個性的な城になった。

 浅野家が改易となったのは、それからちょうど40年後のことだった。むろん、赤穂城は明け渡されることになった。浅野長矩が刃傷事件を起こしてから、城が明け渡されるまでを追ってみよう。

 元禄14年(1701)3月14日、午後6時に切腹を申し渡された長矩は、すぐに田村邸で自刃。午後10時ごろ、赤穂藩士が遺体を引きとって泉岳寺に葬った。翌15日、龍野(兵庫県竜野市)藩主の脇坂淡路守と足守(岡山県岡山市)藩主の木下肥後守が、「赤穂城受城使」に任じられた。

 「受城」とは、改易になった大名の居城を接収することを指す語で、このとき脇坂は赤穂への「在番」も命じられている。

■重臣・大石内蔵助の断腸の思い

 その後の浅野家中の苦難はいうまでもないが、龍野藩もまた大変だった。3月20日に「受城使」への任命状が届けられ、21日には家老を通じて藩士たちに、「受城」や「在番」の心得が伝えられた。23日には「受城」と「在番」の人員が発表されている。

 3月26日、受城の日程が4月19日と決まると、今度は赤穂城の浅野家中に向けて、4月15日までに退去すべしとの命が下った。刃傷事件からわずか1カ月で、赤穂藩士たちは城と城下を後にしなければならなくなったのである。

 だが、龍野藩も振り回される。3月28日、脇坂淡路守は江戸城に登城して、赤穂城の「受城」の御墨印を受けとると、30日には江戸を発った。少し遅れて4月5日、龍野藩士の天野勘介が、赤穂城図などの写しを江戸から持ち帰っている。

 4月9日には、龍野藩士が赤穂城下に下見に入ったと聞き知った大石内蔵助が激怒するという「事件」も起きた。幕命で動いているのに、激怒される龍野藩士も気の毒だが、赤穂藩士たちも12日、話し合いの末、赤穂城を明け渡すことを正式に決めている。さぞかし断腸の思いだったことだろう。