「いい人生やった」と微笑みながら死んだ父が遺した教え

AI要約

老いることに伴う肉体的および機能的な劣化について語られており、老いに対する肯定的な言説に疑問を投げかけている。

高齢者の例を挙げながら、欲望や執着が苦しみの原因であることを示唆し、受け入れることの大切さを述べている。

最新の欲望肯定主義の流れに対し、受け入れと受け容れることの重要性を訴えている。

「いい人生やった」と微笑みながら死んだ父が遺した教え

老いればさまざまな面で、肉体的および機能的な劣化が進みます。目が見えにくくなり、耳が遠くなり、もの忘れがひどくなり、人の名前が出てこなくなり、指示代名詞ばかり口にするようになり、動きがノロくなって、鈍くさくなり、力がなくなり、ヨタヨタするようになります。

世の中にはそれを肯定する言説や情報があふれていますが、果たしてそのような絵空事で安心していてよいのでしょうか。

医師として多くの高齢者に接してきた著者が、上手に楽に老いている人、下手に苦しく老いている人を見てきた経験から、初体験の「老い」を失敗しない方法について語ります。

*本記事は、久坂部羊『人はどう老いるのか』(講談社現代新書)を抜粋、編集したものです。

私が以前、在宅医療で診ていた独り暮らしの女性の患者さんが、自分が死んだあと、家族に迷惑をかけたくないので家を整理したい、見苦しい状況を残したくない、でも、体力がなくて、それができないんですと嘆いていました。

あまりに何度も嘆くので、私は「高齢になったら、そういう欲望も抑えていかなければなりませんね」と宥めました。すると女性は心底、驚いたような顔で、「欲望なんですか」と聞き返しました。女性にとってそれは当然のこと、最低限すべきことだったのでしょう。

彼女にとっての欲望とは、お金がほしいとか、いい暮らしをしたいとか、出世したいとかのことで、死んだあと家族に迷惑をかけたくないというまっとうな気持ちを、それらと同列に置かれたのが心外だったようです。

しかし、広い意味ではやはり欲望でしょう。欲望といって悪ければ、自分の都合でもかまいません。それを義務のように心得ているので、できない自分が情けない、つらいと感じるのです。

欲望と執着が苦しみのタネであることは、二千六百年前にインドで釈迦牟尼がつまびらかにしていますし、同じころ、中国では老子が「無為而無不為=無為なれば、しこうして為さざるなし(無為に至れば、自然にすべてがうまくいく)」と言っています。つまり、多くを求めるから苦しみが生まれ、あれこれ望むからいろいろなことがうまくいかないというわけです。

ところが欲望肯定主義の現代では、もっと求めろ、もっと望めと煽り、苦しみのタネを増やすことにかかっているように見えます。死や老いは受け入れたほうが楽で、よけいな問題も引き起こさないのに、それを否定する健康法や医療、お得な情報が世間にあふれています。これらはすべて裏にビジネス、すなわち金儲けが潜んでいます。赤字を見越してお得な情報を提供する人はいません。