ことばで書けることと書けないこと。いしいしんじの新作『息のかたち』が見せる「生のかたち」

AI要約

高校生・夏実が偶然「息」が見えるようになり、感染症の影響や人々の行動について描かれた物語。

夏実の新しい能力による日常の変化や人との関係性、世界中でのコロナ禍の影響について繊細に描かれている。

文章の中にはさまざまな感情や瞬間が取り入れられ、日常の中に散りばめられた光や希望に触れることができる。

ひょんなことからひとの「息」が見えるようになった京都の高校生・夏実。「コロナ禍」の只中に生まれた、いしいしんじさんの新作『息のかたち』はどのように書かれたのか。「本の名刺」(群像10月号掲載)をお届けいたします。

鴨川の河原を走っていたら、色鮮やかなランニングウエアの女性が、正面から近づいてくるなり左へ迂回し、ぼくを思いっきり避けて川下へ走りぬけていった。まわりで何人もが同じ行動をとった。まるで、互いの吐く息が目にみえてでもいるようだった。

感染症が世を騒がせはじめた春だった。家にこもってことばをさぐるもの書きの暮らし自体にさほど変化はなかった。もともと口を結び、世間とディスタンスをとり、作中での濃厚接触はあってもリアルではない。

だからこそ、河原で迂回しあうランナー同士の行動におどろいた。そのうち、おもしろみさえ感じてきた。その様を意識して書きはじめたわけではなかったけれども、今作の主人公「夏実」が、ランニング中、飛んできたバットが頭にぶつかってから、他人の吐く息の色かたちが目にみえるようになるアイデアは、鴨川を走るランナーたちから少なからずヒントをもらっている。

学校ふくめ公共施設が閉鎖された期間中、毎日、ニューヨークやパリの知人とネット上でビデオ通話をかわしあった。基本みな心配顔だったものの、暗い空気のなかに光さす瞬間がないわけではなかった。

「うちのララたち、あたらしい遊びを発明したの。アパートから一歩も出られないでしょう。だから、四階までの階段をつかって。下へいけばいくほど『しょみん』なの。上へいけばいくほどエラいか、っていうとそうでもなくて、あがりすぎちゃうと死んじゃって、いちばん下のフロアからやりなおし」

ロンドン、北京、アムステルダムの家庭の冷蔵庫事情に、こんなに詳しくなるなんて思いもよらなかった。上海、カイロ、リヨンの知人たちから、週に一度は、見も知らない誰かの誕生日パーティに映像で招かれた。

人類史上初めて、地球上のまさしく全員が、同時に同じ問題に悩まされ、同じ問題から霧が晴れたような喜びにつつまれる。コロナによって、全人類ははからずも、完璧にグローバル化された。金融や流通業における抽象的な数字でなく、寝食、体調、呼吸と、個々人がありありと感知できる、具体的なディスタンスをともなって。

親しいひとが店をとじ、遠い町へ転居していった。さらに遠いところで、とてもよくしてくれた知人がこの世から去った。そんなコロナ禍のただなか、ぼくは時折この世にさしてくるほのかな明るみを感じた。よい、悪いでなく、目をこらせばそこここに、ささやかな光が花びらのようにこぼれている。それらを拾いあつめ、日常のなかへふりかけるのが、夏実や、彼女の家族が、毎日の暮らしのなかでしていることだった。