豊洲の地図を“年代別”に比較したら…… 築地市場移転などで注目を集める場所の“意外な歴史”が勉強になる

AI要約

築地市場移転により注目される豊洲の歴史を年代別に振り返る。

豊洲は大正時代に埋立地として生まれ、戦後は工業施設が集まる場所となった。

高度成長期以降、豊洲は街として発展し、商業施設や地下鉄駅の整備が進んだ。

豊洲の地図を“年代別”に比較したら…… 築地市場移転などで注目を集める場所の“意外な歴史”が勉強になる

 国土地理院のサイト「地理院地図」では、ある場所の上空からの景色を年代別に見ることができます。今回は、築地市場移転などで近年注目される「豊洲」の上空写真を、1936年から現在まで比較してみました。

 豊洲エリアは、もともと大正時代に関東大震災のがれき処理を兼ねて生み出された埋立地です。しばらくは埋立地番号をとってそのまま「5号地」とよばれ、1937年になってやっと町名がつきました。町名の由来には諸説ありますが、豊かに栄える島という意味を込めた、震災のがれきで造られたため貴金属が掘り出されることがあったことで「宝島」などと呼ばれていたのが豊洲となった、などの話があります。

 現在と比べてみると、この時点では後に豊洲市場などができる豊洲6丁目付近にはまだ陸地そのものがありません。

 第二次世界大戦末期、豊洲は空襲で複数回焼けました。この土地には造船所や軍の施設があったのです。

 戦後は石炭や鉄鋼を扱う事業が豊洲に集まりました。これは、GHQによる接収の都合で、東京港のほぼ全域が使えなかったためです。この写真の少し後、各施設が完成するころには、豊洲はさながら東京のエネルギー基地のような様相になりました。

 高度経済成長期には、さらに埋め立てが進みました。このころには、ものづくりの場としてだけでなく街としてもずいぶん整備され、区民館や幼稚園も設けられています。

 そして、この時代にはついに6丁目に陸地が……! 現在の豊洲市場の位置には、工業施設と思われるものが立ち並んでいます。

 ここからは画像がカラーになります。1974年、豊洲にセブン-イレブン日本1号店ができました。ちなみに、この店で最初に売れた品物はサングラスです(なぜだ)。

 1988年には、地下鉄有楽町線の豊洲駅が開業し、都心へのアクセスがさらに便利になりました。この時期の豊洲6丁目は、かつて見られた野球場がなくなったり、工場の設備が一部撤去されたりしています。