紫式部に『源氏物語』を依頼した道長の思惑とは? 時代考証が解く!

AI要約

2024年大河ドラマ「光る君へ」の主人公・紫式部と藤原道長。貧しい学者の娘がなぜ世界最高峰の文学作品を執筆できたのか。古記録をもとに平安時代の実像に迫ってきた倉本一宏氏が、2人のリアルな生涯をたどる!

大河ドラマ「光る君へ」31話では、紫式部(藤式部〈とうしきぶ〉)が『源氏物語』を執筆した契機が描かれたが、はたして実際にはどうだったのであろうか。

紫式部が、『源氏物語』の執筆をいつ頃はじめたのか、古来からさまざまな説が出されてきたが、もっとも可能性の高いのは、長保(ちょうほう)三年(一〇〇一)の宣孝(のぶたか)死去後、出仕以前というタイミングであろう。

紫式部に『源氏物語』を依頼した道長の思惑とは? 時代考証が解く!

2024年大河ドラマ「光る君へ」の主人公・紫式部と藤原道長。貧しい学者の娘はなぜ世界最高峰の文学作品を執筆できたのか。古記録をもとに平安時代の実像に迫ってきた倉本一宏氏が、2人のリアルな生涯をたどる! *倉本氏による連載は、毎月1、2回程度公開の予定です。

大河ドラマ「光る君へ」31話では、紫式部(藤式部〈とうしきぶ〉)が『源氏物語』を執筆した契機が描かれたが、はたして実際にはどうだったのであろうか。

紫式部が、『源氏物語』の執筆をいつ頃はじめたのか、古来からさまざまな説が出されてきたが、もっとも可能性の高いのは、長保(ちょうほう)三年(一〇〇一)の宣孝(のぶたか)死去後、出仕以前というタイミングであろう。

紫式部が寡婦となった徒然(つれづれ)の慰めとして、とりとめのない作り物語を書きはじめたとも思えないし、さりとて引き裂かれそうになる自我をぎりぎりつなぎ止めるための必死の営為であったようにも、どうも思えない。

私には、『源氏物語』全編を紫式部が執筆したという前提で、特定の読者を意識(予定)しないでは、あれほどの長編を書きはじめるのは難しいように思われてならない。

いったい『源氏物語』を書き記すためには、どれほどの紙が必要となるのであろうか。『源氏物語』の清書に要した料紙の枚数を推定すると、一枚の紙を四半本(よつはんぼん)として四丁とすると、一丁は裏表で二頁となるから、一紙から八頁が取れる。現存最善本の写本とされている大島本(おおしまぼん、文明十三年〈一四八一〉作成)を見た限りで大まかな平均を取り、乱暴な仮定をおこなうと、一行に二〇字書くとして、一頁一〇行とすると、一頁には二〇〇字、つまりは一紙で一六〇〇字を書くことができる。

『源氏物語』は全編五四巻で、数え方にもよるが九四万三一三五字である。これを記すためには六一七枚の料紙が必要となる。内訳は、「桐壺」巻から「藤裏葉」巻までの第一部が四三万九四六五字で二九一枚、そのうち根幹の物語となるa系だけで一六五枚、「若菜上」巻から「幻」巻までの第二部が一九万三八五一字で一二五枚、「匂兵部卿」巻から「夢の浮橋」巻までの第三部が三〇万九八一九字で二〇一枚である。

これは清書用の料紙の問題であり、下書き用の紙や、書き損じて反故(ほご)にした紙は、膨大な量にのぼるはずである。これに改行分を加えれば、さらに大量の料紙が必要となる。表紙や裏表紙用の紙も勘定に入れていない。また、これは一紙一六〇〇字で計算してみた枚数だが、一紙を袋綴(ふくろとじ)にして表に四〇〇字を書いた場合には、二三五五枚という、気の遠くなるような清書用料紙が必要となってくる。

光源氏が須磨・明石に流謫(るたく)した「須磨」「明石」巻に長徳(ちょうとく)二年(九九六)の「長徳の変」における藤原伊周(これちか)の配流との関連があるとすると、出仕の段階ではこのあたりまでは執筆していた可能性が考えられる。これらは宮中におらずとも描けたかとも思われる。

一方では、光源氏復帰後の権力闘争や宮廷政治や後宮(こうきゅう)の有様は、出仕後の見聞に基づくものかと考えたい。そうなると、第一部a系の途中まで、出仕以前に書き終えていた可能性が高いのではないだろうか。

そうすると、その時点では四半本で一〇〇枚弱、袋綴で四〇〇枚ほどの清書用料紙を必要としたということになる。下書き用や反故にした紙、後に述べる三種類の親本の存在を考えると、出仕以前にも膨大な量の料紙を必要としたことが推定されるのである。