“テレビから消えた”ウーマン・村本大輔。ニューヨークに拠点を移した今、日本に思うこと

AI要約

村本大輔さんが海外でスタンダップ・コメディに挑戦するドキュメンタリー『アイアム・ア・コメディアン』が公開中。村本さんは笑いに政治ネタを入れるようになり、テレビ出演が急落する中、NYを拠点に活動している。

村本さんがメディアで社会問題について発言するようになったきっかけはABEMAの番組『ABEMA Prime』での取材。以前からテレビ出演が増えていたが、ABEMAの番組を通じて市井の人々の実態に触れ、社会の多様性に気づいた。

村本さんはテレビ局からお上りさんのように扱われる生活から抜け出し、被災地や沖縄を訪れる取材を通じて、社会のリアルな部分に触れ、それをネタ作りに活かし始めた。

“テレビから消えた”ウーマン・村本大輔。ニューヨークに拠点を移した今、日本に思うこと

 海外でスタンダップ・コメディに挑戦するウーマンラッシュアワーの村本大輔さんに3年間密着したドキュメンタリー『アイアム・ア・コメディアン』が全国で公開中だ。

 2013年に漫才コンクール「THE MANZAI」で優勝後、1年間で250本を超えるテレビ番組に出演。ところが、笑いに政治ネタを入れ始めてからその数は急落。2020年は1本となり、日本のテレビから消えた。前後編のインタビューの前編では、活動の拠点をNYに移した現在、どのようなことを感じているのか。村本さんに聞いた。

――笑いのネタに社会問題を入れたるようになったのは、ABEMAのニュース番組『ABEMA Prime』での取材がきっかけとのことでした。

村本大輔(以下、村本):メディアで社会のことについて発言し始めたのは、フジテレビの「ワイドナショー」でした。「すべらない話」の打ち上げの時にプロデューサーの中嶋(優一)さんに「ワイドナショーに何で同期の西野(亮廣)が出てるんですか?僕も出して下さいよ」と冗談半分に聞いたんです。それで「しゃべれるの?」と聞かれて「できます!」と答えてしまって…。

 それで番組からオファーが来るようになりました。そのたびに自分の周りの賢い友達に「今度こういうテーマについて話すのだけど、教えて!」と勉強していました。

 それで、「ワイドナショー」の次に、「サンジャポ(サンデージャポン)」に出て、「朝生(朝まで生テレビ)」に出て、となりました。「知らないことは知らない」とはっきり言ったことが良かったみたいです。それで、ABEMAにも呼ばれるようになりました。

――現場取材をしてどのようなことを感じていましたか。

村本:今振り返ると、当時の生活は浮世離れしていたと思います。タクシーでテレビ局に運ばれて楽屋で待って番組に出る。そして、夜になったら、テレビ局の近くの六本木や麻布十番の店に行く。個室のレストランやちょっとラグジュアリーなところに行って、後輩と飲んだり、他の芸能人の人たちとしゃべったり。

 住んでいるのは麻布十番や恵比寿、代官山辺りです。お上りさんなのでと浮かれてそういうところを選ぶわけですよね。テレビ局と飲食店、自宅を行ったり来たり。ずっとこの繰り返しでした。

 ところが、ABEMAの番組で被災地や沖縄の訪問をして、初めて市井の人たちの実態を知りました。お金がない人や、苦しい思いをしている方々の思いに触れました。そして、社会にはこんなにいろんな色の人がいる、グラデーションがあるということを知ったんです。

 それから、ABEMAで被災地や沖縄に行って取材し、一方で、ネタを作ってテレビに出る日々が始まりました。