【細野晴臣、吉田美奈子、忌野清志郎、遠藤ミチロウ】かつて東京の西にあったシティポップな「狭山アメリカ村」とロックンロールな「国立ぶどう園」、2つの音楽コミューンの今

AI要約

1970~80年代に活躍したミュージシャンたちが集まった2大コミューン、「アメリカ村」と「ぶどう園」。それぞれの場所の現在の様子を追う。細野晴臣の自宅兼レコーディングスタジオとして知られる「アメリカ村」は、かつて米軍ハウスがあったエリアで、アメリカの文化を取り入れた特別な場所だった。一方、「ぶどう園」は忌野清志郎や仲井戸麗市が出入りし、遠藤ミチロウらが住んでいた場所である。半世紀が経った今も、これらの場所は音楽史に残る存在である。

細野晴臣が1973年にリリースしたアルバム『HOSONO HOUSE』は、自宅でのホームレコーディングを取り入れた画期的な作品だった。その裏ジャケットには、細野の自宅の住所が記されており、埼玉県狭山市にある「アメリカ村」に位置していた。

『細野晴臣と彼らの時代』によると、「アメリカ村」は元々米軍ハウスがあったエリアで、日本人ミュージシャンたちがアメリカの文化に触れ、理想のアーティスト村を形成した場所だった。

【細野晴臣、吉田美奈子、忌野清志郎、遠藤ミチロウ】かつて東京の西にあったシティポップな「狭山アメリカ村」とロックンロールな「国立ぶどう園」、2つの音楽コミューンの今

1970~80年代。日本にはミュージシャンらが集う“2大コミューン”があった。一方は、埼玉県狭山市の「アメリカ村」。細野晴臣や小坂忠、吉田美奈子といった近年流行のシティポップの文脈で再評価されているミュージシャンたちが住んでいた。もう一方は、東京都国立市の「ぶどう園」。こちらは忌野清志郎や仲井戸麗市が出入りし、遠藤ミチロウらが住んでいた。あれから半世紀が経ったが、2つの場所は今どうなっているのか。ライターの佐藤誠二朗氏が、彼らの軌跡をたどる。

後にYMOを結成する細野晴臣が、はっぴいえんど解散翌年の1973年5月にリリースした、ソロ初アルバム『HOSONO HOUSE』。

アメリカの一部のミュージシャンらが実践していたホームレコーディングの手法を取り入れ、機材をそろえた自宅でレコーディングの全工程を行なった、当時の日本では画期的な作品である。

このアルバムの裏ジャケットには、レコーディング現場となった細野の自宅=ホソノハウスの住所が番地まで印されていた。

埼玉県狭山市鵜の木11-36。

県営狭山稲荷山公園と国道16号に挟まれたそこは当時、“狭山アメリカ村”あるいは単に“アメリカ村”と呼ばれていたエリアである。

2020年に発売された細野晴臣の評伝『細野晴臣と彼らの時代』(門間雄介・著、文藝春秋・刊)のプロローグを引用しよう。

かつてこの辺りはジョンソン基地と呼ばれていた。(中略)ジョンソン基地は段階的に日本に返還され、入間基地になり、基地の一角のハイドパークと呼ばれていた公園は狭山稲荷山公園になった。

基地に隣接する米軍ハウスが開放され、日本人に賃貸されるようになったのは返還が進むなかでのことだ。

この米軍ハウスが狭山アメリカ村である。

アメリカの文化や生活様式をそのまま残す、いってみれば日本のなかの米国は、アメリカに憧れを抱く戦後生まれの若いミュージシャンたちを呼びよせ、そこに夢と理想のアーティスト村を形成した。

『細野晴臣と彼らの時代』(門間雄介・著、文藝春秋・刊)