西村知美「私の歌なのに娘のほうがカラオケで高得点」…歌のコンプレックス克服したい“切実な理由”《あの80年代アイドルの今》

AI要約

‘86年に映画『ドン松五郎の生活』で女優デビューを果たした西村知美。忙しいデビュー時代や現在のキャリアについて語る。

アイドル時代から受け継がれる苦手意識を乗り越え、デビュー40周年に向けて歌を再考する西村知美。

家族や資格取得、娘との関係など、普段の生活についても覗かせる西村知美。

西村知美「私の歌なのに娘のほうがカラオケで高得点」…歌のコンプレックス克服したい“切実な理由”《あの80年代アイドルの今》

‘86年に映画『ドン松五郎の生活』で女優デビューを果たし、同時に主題歌『夢色のメッセージ』を発売するという、華々しいデビューを飾った西村知美(53)。“とろりん”の愛称で親しまれ、トップアイドルとして活躍後、天然ボケのキャラクターを武器に『さんまのSUPERからくりTV』(TBS系)など、バラエティタレントとしても人気を集めた。

「たしかにデビュー当時は忙しかったですね。ドラマを掛け持ちして台本6冊を持ち歩き、歌番組も2~3本。その間にラジオや雑誌の取材があって、移動する車の中でインタビューを受けたり。

ドラマも最初から『深夜3時終わり』って言われて、それが結局朝の5時までかかるんです。次は朝6時からって言われて、もう家に帰る時間もないじゃないですか。それでもセリフや歌を覚えなくちゃいけなかったり、あるときはドラマ終わりで『サイン500枚書いてきて』、と言われたことも。そんな毎日の連続で、よく車の中で大泣きしたのを覚えています。当時高校には一人で通っていましたが、何度も反対方向の電車に乗って、このまま失踪しようかな、なんて思ったりもしました」

当時、事務所のスタッフから「(‘86年デビューの)同期は600人いる」と聞かされていたという。

「でも、私は‘80年代にアイドルとしてデビューできてよかったと思うんです。今のアイドルは、歌も踊りもトークもできなくちゃならない。完璧を要求されるじゃないですか。あの時代だからこそ、歌唱力のない私でもデビューできたんだと思います。

今はあえて“元アイドル”と言わせていただいているんです。もちろんこの年齢でアイドルができるわけではないのですが、現在の肩書を聞かれると“歌手”でも“女優”でもなく、あえていえば“バラエティタレント”なんですけど、それもおこがましいと。だから、しょうがないので“元アイドル”や“‘80年代アイドル”とさせていただいてます」

そう謙遜する西村だが、芸能界きっての“資格マニア”としても知られている。その数、芸能界屈指の55個! 介護資格や小型船舶免許などのほかにタイ古式マッサージ、さらに河童捕獲などユニークなものまで多岐に渡る。

「もともと、いつ仕事を干されてもおかしくないと思っていたので資格を取るようになったんです。残念ながら、直接仕事につながっているわけではないんですけど……。

河童捕獲の資格ですか? あれは許可証なので、申請すれば200円で買えるものなんです。昔、タモリさんがテレビの前世占いで『前世は河童』と言われたときがあったんですが、そのとき私もロケにご一緒していて。以来、河童の存在を信じてるんです。

タイマッサージも29歳のときに家族の反対を押し切って、タイへ行って取りました。でも、向こうでとったので、タイでしか有効ではないんですよ。でも、私はいつかタイに住みたいと思っているんです」

プライベートでは‘97年に元CHA-CHAのメンバーで料理人の西尾拓美さんと結婚。’03年に長女をもうけた。

「夫も‘80年代アイドル? ホントですね。気がついたら娘も二十歳過ぎました。不妊治療を経てありがたく授かって……。大きな病気もせずに、元気でいてくれるだけでうれしいですね。

最近は、娘と旅番組のロケに出させてもらうこともあります。じつは、彼女がお腹の中にいたころから母娘でテレビに出演しているんですが、娘はデビューはしていません。あくまで肩書は一般人。あえて言うなら“西村知美の娘”でしょうか。もう就職活動をしなくてはいけない時期(大学3年生)なのですが、どうするんですかね。芸能界入りはなさそうです。パパを見習って料理の腕を磨いてもらえたらいいな。

娘とはよくカラオケに行くんですが、採点付きで私の曲を歌うと、娘のほうが私より高得点なんです。私が自分の持ち歌で80点台なのに、娘は90点以上取っちゃう。それでからかわれてますね(笑)」

歌に対する苦手意識は、アイドル時代からのものだと話す。

「ご存じのとおりの歌唱力ですから、歌はなるべく避けてきたんですけど……。それでも、来年がデビュー40年なんです。あっ、再来年でした(笑)。そんなことで“最後の集大成”じゃないけど、ちょっとその節目には何か歌わなくては、と考えているんです。これまでも名だたる作詞家・作曲家の先生に曲を作っていただいたので、ご相談して。お客さんが集まるかわかりませんが、頑張ってやりたいです!」

80年代当時から変わることのない、まっすぐな瞳で宣言してくれた。