なぜ小笠原諸島で「核貯蔵」が黙認されてきたのか…まったく不明だった「日米戦後史」の謎

AI要約

硫黄島で起きた出来事に関する非公開の核貯蔵について、日本政府と米国の間で行われた密約が明らかになりつつある。

事件の詳細については、米国との公開された議事録から仮定された情報を元に報道が行われており、一部の文書は依然として非公開となっている。

この「核密約」についてさらに掘り下げ、日本国民により多くの情報を提供することが必要とされている。

なぜ小笠原諸島で「核貯蔵」が黙認されてきたのか…まったく不明だった「日米戦後史」の謎

 なぜ日本兵1万人が消えたままなのか、硫黄島で何が起きていたのか。

 民間人の上陸が原則禁止された硫黄島に4度上陸し、日米の機密文書も徹底調査したノンフィクション『硫黄島上陸 友軍ハ地下ニ在リ』が9刷決定と話題だ。

 ふだん本を読まない人にも届き、「イッキ読みした」「熱意に胸打たれた」「泣いた」という読者の声も多く寄せられている。

 硫黄島と核の歴史を最初に指摘したのは、米核軍縮団体である天然資源保護協会のロバート・S・ノリス氏らだ。彼らは、小笠原諸島を返還しても核兵器の貯蔵庫として引き続き使用できる権利を米国側が日本側に交渉していたと指摘した。

 ただ、その結果に関する文書は〈機密にされたままである〉ことから〈交渉が最終的にどうなったかは全く不明である〉とした。その文書こそが「A-1331」だった。

 〈全く不明〉だった核貯蔵を巡る謎の交渉内容。その闇に切り込んだのは、日本の通信社「共同通信」だった。記事は多くの新聞に掲載された。そのうちの一紙が、2000年8月2日付の北海道新聞だ。「小笠原での核貯蔵黙認 米公文書で判明 68年 返還時に日米が密約」との見出しで大きく報じた。

 記事の内容は衝撃的だった。〈一九六八年の小笠原諸島返還で、有事の際は小笠原に米軍の核兵器を貯蔵することを日本政府が事実上黙認する秘密了解を結んでいたことが一日までに判明、小笠原返還時の「密約」が初めて確認された(要約)〉。

 つまり、日本政府は交渉の結果、核の有事貯蔵を認めていた、と報じたのだ。

 その根拠は〈米国立公文書館などで見つかった米機密公文書〉だった。ただ、それにはA-1331は含まれていない。A-1331は〈依然、非公開〉だったためだ。

 では、いかなる公文書を根拠にしたのか。

 それは米国側で公開済みだった、核貯蔵を巡る三木武夫外相とジョンソン駐日大使の議事録の「草稿」だ。草稿は、日米間で事前に調整された両氏の発言の台本とも言い換えることができる。つまり、交渉が台本通りに行われたであろう、という仮定に基づいた報道だった。

 つづく「日本国民に知られないように交わされた硫黄島『核密約』の具体的な中身」では、知られざる「小笠原議事録」の内容と日米の大使・外相のやりとり、核の持ち込みを認めたとされる根拠などについて深く掘り下げる。