新たな静岡県知事は鈴木康友 氏に…幸福度日本一を掲げ激闘制す 経歴や人柄は? 川勝平太 前知事の辞職に伴う選挙

AI要約

元衆議院議員で浜松市長を4期務めた鈴木康友氏が、静岡県知事選挙で当選を果たした。鈴木氏は松下政経塾出身で、自動車メーカー・スズキの鈴木修相談役の後ろ盾を得て政界入り。浜松市行政区再編などの取り組みを通じて知名度を高めてきた。

修氏の支援を受けて浜松市長選に初当選した鈴木氏は、政界での経験を積み重ねながら、自らの政治スタイルを確立してきた。修氏との意思疎通の重要性や行政改革への姿勢が、鈴木氏の政治活動に大きな影響を与えている。

鈴木康友氏は、静岡県知事として、市民の声に耳を傾けながら、地域の課題解決に取り組んでいくことが期待される。彼の過去の経歴や人物像から、静岡県政への新たな展望が広がるだろう。

新たな静岡県知事は鈴木康友 氏に…幸福度日本一を掲げ激闘制す 経歴や人柄は? 川勝平太 前知事の辞職に伴う選挙

静岡県の川勝平太 前知事が辞職したことに伴う県知事選挙は、開票の結果、元衆議院議員で浜松市長を4期務めた鈴木康友 氏が当選を確実なものとした。鈴木氏の経歴や人物像を紹介する。

「原点に立ち戻り『やります』の精神で県政の舵取りをしていきたい」

4月15日。集まった報道陣を前に、声高らかに知事選への挑戦を打ち出したのが鈴木康友 氏だ。

浜松市出身の鈴木氏は1957年8月生まれの66歳。

浜松北高校・慶應義塾大学法学部を経て、卒業後は松下電器産業(現在のパナソニックホールディングス)の創業者・松下幸之助 氏が設立した政治塾「松下政経塾」に1期生として入塾した。同期には立憲民主党の最高顧問・野田佳彦 元首相や松下政経塾の出身者では初の国会議員で野党時代に自民党の国会対策委員長を務めた逢沢一郎 衆議院議員、佐賀県多久市で歴代最多の当選7回を誇る横尾俊彦 市長などがいる。

また、鈴木氏が尊敬する人物として松下幸之助 氏を挙げていることからも松下政経塾への思い入れの深さが伺える。

それでも、卒塾後すぐには政界に挑戦せず、しばらくは会社経営に従事。

初めての選挙は今から四半世紀前の1999年で、衆議院静岡8区選出の北脇保之 氏が浜松市長選挙に立候補するため辞職したことに伴う補欠選挙に民主党公認として立候補したが、この時には自民党の元職・塩谷立 氏に敗れている。

だが、再戦の機会はすぐに訪れ、森内閣のもと2000年に行われた、いわゆる“神の国解散”で前年敗れた塩谷氏に比例復活も許さない完勝で初当選。続く2003年の衆院選でも比例で救われ再選を果たしたが、2005年の郵政解散では“小泉旋風”に押され、比例復活も叶わず落選している。

すると、2006年には翌年行われる浜松市長選への立候補を表明した。

とはいえ、これは鈴木氏の“意思”というより、今も昔も鈴木氏にとって最大の後ろ盾である自動車メーカー・スズキの鈴木修 相談役の意向が強かった。

実は前述の北脇氏が浜松市長選に立候補した際の“後見人”は修氏だ。この時は現職の栗原勝 市長(当時)が6選を目指す中、それを阻止すべく北脇氏を担ぎ出した。

しかし、北脇氏が2期目の任期を折り返したあたりから両者の間には溝ができ始める。

そして、2人の亀裂を決定的なものとしたのが市の行財政改革推進審議会だ。浜松市では2007年4月1日からの政令指定都市移行にあたって7つの行政区の設置を決めていたが、修氏が会長に就いたこの行革審は2006年3月、北脇氏に対して「5年後には合区を前提に見直すこと」などを答申。

ところが、北脇氏はこれに首を縦に振らなかった。

後年、北脇氏は取材に対し「よく静岡市(浜松市より一足早く2005年に3区制の政令指定都市へ移行)を引き合いに出す人がいるが、静岡市は清水市との2市による合併。12市町村(浜松市・浜北市・天竜市・引佐町・細江町・三ケ日町・雄踏町・舞阪町・佐久間町・水窪町・春野町・龍山村)が合併した浜松市は、歴史や文化、地域性、人口などを勘案して7区制が最適と判断した」と述べているが、“盾突かれた”と感じた修氏は一気に“反北脇”へと舵を切り、対立候補として鈴木氏を擁立。