日本兵2万2000人が散った硫黄島、もう一つの「最後の電報」をご存知ですか?

AI要約

硫黄島での日本兵1万人の謎の失踪について、実際に上陸し機密文書を調査したノンフィクションがベストセラーとなっている。

硫黄島の通信隊が密やかに任務を果たし、玉砕の後も伝えるべき情報を送信し続けた姿が描かれている。

硫黄島上陸翌日から始まった遺骨収集の衝撃的な報告が含まれている。

日本兵2万2000人が散った硫黄島、もう一つの「最後の電報」をご存知ですか?

なぜ日本兵1万人が消えたままなのか、硫黄島で何が起きていたのか。

民間人の上陸が原則禁止された硫黄島に4度上陸し、日米の機密文書も徹底調査したノンフィクション『硫黄島上陸 友軍ハ地下ニ在リ』が12刷ベストセラーとなっている。

ふだん本を読まない人にも届き、「イッキ読みした」「熱意に胸打たれた」「泣いた」という読者の声も多く寄せられている。

硫黄島発の最後の通信を巡っては、別の電報もある。

川波静香『父島「僕の軍隊時代」ある兵士の手記をもとに』(文芸社)に収載された父島の陸軍通信隊の元将校、吉岡健児氏の手記が伝えている。

手記によると、父島の通信隊は、硫黄島と大本営の通信を中継する役割を担っていた。硫黄島発の電報を受信して、それを大本営に発信する。それが主任務だった。通信と通信の合間には、両島の隊員間の私信のような通信を交わした。それを「ムシ」と呼んでいた。父島の通信隊から硫黄島の通信隊に配置転換になった通信兵は多かった。そのため両島の通信兵士の多くは元同僚の間柄だった。

米軍上陸から約1ヵ月がたった1945年3月15日、父島通信隊は「S伍長戦死……敵兵ガ見エテキタ」など、絶望的状況を伝えるムシを受信した。同17日には、暗号文ではなく生の電報が届いた。内容は「アンゴウショ ヤイタ」だった。間もなく玉砕すると悟った吉岡氏は返電した。「ココロオキナクタタカワレヨ チチジマイチドウ ゲンキニテキヲマツ ヨシオカ」。

そして、日付が18日に変わるころ「サヨナラ サヨナラ オセワニナリマシタ ○○ニヨロシク △△にヨロシク」と硫黄島側の通信兵は人名や住所を次々と伝えてきたという。中には女性の名前もあった。妻なのか、母なのか、それとも娘なのか。いずれにしても最も別れを知らせたい大切な人たちだったのだろう。やがて「サヨナラ サヨナラ ジカンガナイジカンガナイ」というムシと共に、ぷつんと通信は途切れた。

3日後の21日、大本営は硫黄島守備隊が全滅したと発表した。まさにその日のことだ。全滅したはずの硫黄島から再びムシが届き始めた。そのほとんどが、奮闘した硫黄島守備隊の将兵の殊勲上申だった。敵戦車の装備や、装甲の厚さなど、今後の本土防衛戦などで活かすべき「戦訓」を報告する電報もあった。とにかく伝えようと必死だったのだろう。父島側の通信兵が返電しようとすると「マテ マテ」と遮り、一方的に送信を続けた。送信は2日後に途切れた。

吉岡氏の手記によると、硫黄島の通信隊は大本営が「硫黄島玉砕」を発表した後も、任務を続けていたのだ。硫黄島で起きたことを、残された祖国の人々に伝えるために。

つづく「「頭がそっくりない遺体が多い島なんだよ」…硫黄島に初上陸して目撃した「首なし兵士」の衝撃」では、硫黄島上陸翌日に始まった遺骨収集を衝撃レポートする。