日本兵だけでなく島民も犠牲に…多くの人がじつは知らない「硫黄島で起きていたこと」

AI要約

硫黄島での戦闘中に日本兵1万人が消えた謎や、島で起きた様々な出来事について語られている。

硫黄島についてのノンフィクション作品がベストセラーとなり、作中では残された文書や民間人の動向に焦点が当てられている。

戦争の犠牲として日本兵だけでなく、島民も多く犠牲になったことが示され、その一族の物語が描かれている。

日本兵だけでなく島民も犠牲に…多くの人がじつは知らない「硫黄島で起きていたこと」

なぜ日本兵1万人が消えたままなのか、硫黄島で何が起きていたのか。

民間人の上陸が原則禁止された硫黄島に4度上陸し、日米の機密文書も徹底調査したノンフィクション『硫黄島上陸 友軍ハ地下ニ在リ』が12刷ベストセラーとなっている。

ふだん本を読まない人にも届き、「イッキ読みした」「熱意に胸打たれた」「泣いた」という読者の声も多く寄せられている。

湯飲みが出土した同じ日。午後の作業ではいくら掘っても遺骨が出てこない時間が続いた。

僕の近くでスコップを振るっていた楠さんが、小さな声でつぶやいた。

「じいちゃん、どこにいるんだよ……」

僕は思わず手を止めて楠さんの方を見た。楠さんは独り言を聞かれてしまったことを気付いていない様子で、作業を続けていた。

陽気な楠さんは作業中も、あえて陽気に振る舞っている。その理由はすでに書いた。明るい未来に生きる子孫の姿を見せて迎えることが、慰霊になると考えているからだ。

僕と楠さんから離れた場所にいた団員から「出ましたー」の声が発せられたのは、その5分後のことだ。この日の作業終了まで10分を切っていた。楠さんの思いが届いたのだろうか。

楠さんの祖父、高橋廣さんは硫黄島民だった。東京都は米軍上陸の8ヵ月前の1944年6月、島民約1100人に対し本土への疎開命令を下した。ただし、16歳以上の少年を含む男性約100人に対しては、残留して軍を支援する「軍属」になることを強いた。このうち生還したのは約10人とされる。

硫黄島の戦死の悲劇は兵士ばかりが伝えられるが、島民の犠牲者もいた。楠さんの祖父はその一人だった。兵士であれば、所属部隊の配置先の記録が残っているため、戦死した時期や場所は推定できる。しかし、軍属の場合、いつ、どこで死亡したのか、まったく分からない。犠牲になった旧島民の遺族たちは、そんな悲しみも抱えている。

戦死した高橋廣さんには3人の子供がいた。楠さんの母は2番目の子供で、疎開時4歳だった。今も残る硫黄島に関する記憶は、まさに疎開の日のことだ。島の海岸から母やきょうだいらと共に小舟に乗り、沖に停泊する疎開船に向かった。お気に入りだったアルミコップを手に持っていたが、小舟に乗っている間、波に浸して遊んでいるうちに、手を滑らせて海の中に落としてしまった。手を伸ばしたが、すぐに見えなくなった。疎開時に持ち物は最小限に留めるよう、島民たちは求められていた。そんな中で持ち出したものだったのだから相当、気に入っていたのだろう。コップを失ったことがとにかく悲しかった。その話を楠さんは、幾度も聞いたという。

きょうだい3人は本土疎開後、別々の家に養子としてもらわれていった。楠さんの母は山梨、姉は福島、弟は北海道に渡ることになった。

こうして一家は、離散した。