日本初「緑区」は名古屋市!中日・大島洋平が語る出身地のイチバンの魅力【企画・NAGOYA発】

AI要約

名古屋市緑区は、名古屋市で最も人口が多い区の一つで、地元愛にあふれる中日の大島洋平外野手も出身である。

地元の名古屋市緑区は、主要な交通手段の整備や住宅地の拡大など近年大きく変化しており、住みやすさが魅力的である。

緑区にはプロ野球の歴史にもその名が残る鳴海球場跡地や桶狭間などの歴史的な名所があり、地元愛が強い住民が多い。

日本初「緑区」は名古屋市!中日・大島洋平が語る出身地のイチバンの魅力【企画・NAGOYA発】

◇第31回 「日本で最初の『緑区』は名古屋市」その1

 全国の政令指定都市に『緑区』は計5カ所ある。その中で最も早く設置されたのが名古屋市の緑区だ。同市の南東部にあり、1963年に旧・鳴海町が編入された際に14番目の区として新設された。同市を構成する16区で最も人口が多い。同区出身で地元愛にあふれる中日の大島洋平外野手(38)にも魅力を聞いた。(構成・鶴田真也)

  ◇  ◇  ◇

 ―地元の名古屋市緑区は人口が多い区

 大島「人口が名古屋で一番になったのは最近(2004年)ですよね。僕がちっちゃい頃はまだ空き地とか畑が多かった。田舎に近いような感じだったけど、今は住宅地も増えましたね」

 ―11年に名古屋市営地下鉄桜通線が住んでいた徳重まで延伸して通勤、通学も便利に

 「もうちょっと早く開通してくれたらなと思いました。桜通線はできるできるとずっと言われていたのになかなかできなくて。結局僕が高校の時もできなかった。大学を出て地元に帰ってきたときに駅ができたことを知ったと思う」

 ―母校の享栄高は桜通線沿線。高校の時に開通していたら便利だった

 「めちゃくちゃ楽でしたよね。それまでは親が(当時の終着駅だった)野並駅まで送ってくれてそこから地下鉄で。帰りはグラウンドから高校のバスがいくつかの駅を寄ってくれてそこから帰る形で。僕は原駅で確か降りていたのかな」

 ―徳重付近は様変わり

 「街並みがだいぶ変わりましたね。それこそ駅ができて(商業施設の)『ヒルズウォーク(徳重ガーデンズ)』もできて車が多くなった。道も混むようになったなとすごく感じますね。僕は裏道を使いますが」

 ―ご本家は洋ラン農家

 「おじいちゃん家が農家で、よく野菜とかお米、ブドウとかをもらったりしてましたね。裏山があったので夏休みは、そこでいとこと一緒に鬼ごっこをしたりとか、カブトムシを捕りに行ったりとかして遊んでました」

 ―2019年から地元を中心とした軟式野球大会が「大島洋平杯」として開催されている

 「小学生の時に所属した軟式チームの『平針HBC』の(創設者で2012年に他界した元中日投手の)河村保彦さんが始めた大会を僕が引き継いだ。ちょっとでも野球に興味を持つ子が増えればいいと思っています。試合の中で少しでも上手になってくれればいいですね」

 ―緑区にはプロ野球の歴史にもその名が残る鳴海球場があった。跡地は自動車学校に

 「球場だったということは知っています。あの自動車学校の前は結構よく通っていた。今もスタンドが残っていますね。野球場の中に自動車学校があるみたいな感じの雰囲気だったので、それはすごい覚えてます。地元にそういうものがあるので何か縁は感じます」

 ―そのほか桶狭間とか旧跡も多く、有松には古い街並みも残っている

 「桶狭間の辺りも僕は好きですね。小学校の時から歴史の勉強とかするじゃないですか。教科書に出てくるところが、自分の家の近くにあるので興味を持ちますよね。遠足でも行きましたし」

 ―改めて地元出身者から見る緑区の魅力とは

 「やっぱり住みやすさじゃないですか。地下鉄が通って名古屋の中心部にもすぐに行けるようになったし、名二環とか高速もあるので車でどこへでも行きやすい。公園もいっぱいあるので、子供を育てる環境としてもいい。地元の友達は地元愛が強い人たちが多いので、そのまま地元に残って住んでいる人が多い。特に徳重はそうですね」

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 ◆大島 洋平(おおしま・ようへい) 1985年11月9日生まれ、38歳。名古屋市緑区出身。享栄高(愛知)、駒沢大、日本生命を経てドラフト5位で2010年に中日に外野手で入団。12年に盗塁王に輝き、19、20年と2年連続で最多安打のタイトルを獲得。昨年8月に2000安打達成。今季でプロ15年目。176センチ、75キロで左投げ左打ち。