怪談「トイレの花子」が、尻をなでる“手”から“女の子”へと進化した深い事情

AI要約

将門の首塚は、祟りがある場所として怖れられているが、実際には関東大震災後に怪談として語られるようになった新しいミステリーである。

首塚周辺での出来事や工事に関連した死亡や不可解な事件が起こり、これらが将門の祟りと結びつけられるようになり、1970年代に怪談がさらに流行した。

マスコミによって広められた将門の首塚の怪談は、今も日本人にはおなじみの祟りスポットとして広く認知されている。

怪談「トイレの花子」が、尻をなでる“手”から“女の子”へと進化した深い事情

 昔も今も、怪談は人から人へと語り継ぐコミュニケーションツールと言えるでしょう。インターネットが普及する前は、当時のマスコミによって怪談が喧伝され、日本全国に広まっていきました。今回紹介するのは、祟りスポットで有名な「将門の首塚」とトイレの花子さんの誕生のルーツ「便所の怪」の2本。怪談・都市伝説研究家の吉田悠軌氏による解説付きでお楽しみください。

※本稿は、吉田悠軌『教養としての最恐怪談 古事記からTikTokまで』(ワン・パブリッシング)の一部を抜粋・編集したものです。

● 将門の首塚

 そこで無礼を働けば、強烈な祟りに見舞われる……。「平将門(たいらのまさかど)の首塚」は、日本で最も怖れられている場所のひとつだろう。

 ただし将門の首塚が“祟る場所”として扱われだしたのは、それほど昔のことではない。大正時代までの首塚は、大蔵省の敷地に残された盛り土の古墳だった。史跡として2度にわたる発掘調査が行なわれたが、内部からは遺体もなにも発見されていない。そして関東大震災によって大蔵省一帯が損壊。復旧工事に伴い古墳は破壊され、仮庁舎が建てられた。

 首塚にまつわる怪談が語られ始めたのは、その後からだ。

 数年後、大蔵大臣はじめ、官僚や工事関係者が次々に死亡していったのだ。死者数は10人以上におよび、庁舎内での転倒による怪我人も続出。将門の祟りではないかと怖れた当局は1927年、塚の石碑を新たに建立。翌年3月27日に神田明神による鎮魂祭を、4月14日に日輪寺での法要を執り行なった。

 さらに1940年、落雷によってまたも大蔵省庁舎が焼失。大手町の官庁街まで燃え広がる被害が起きた。奇しくも将門没後1000年目にあたる年だったこともあり、再び大蔵省による慰霊祭が催された。

 さらに将門の首塚の怪談が日本中に広まったのは1976年。この年、雑誌などのメディアがこぞって首塚の祟りにまつわる伝説を紹介したのだ。

 戦後、アメリカ進駐軍が首塚一帯を駐車場にしようと画策。しかし工事に入ったブルドーザーが横転し、日本人運転手が死亡してしまう。そこで当時の町内会長がGHQに「大首長の墓を保存してくれ」と陳情し、なんとか首塚が残されたという……。

 首塚に隣接した企業ビルの各階で病人が続出した。彼らはすべて窓際のデスクに座っており、塚に尻を向けていた。この失礼が将門を怒らせたのだと解釈し、机を反転させて正面を向くようにしたところ、祟りは鎮まったそうだ……。

 今も有名なこれらの逸話が、当時のマスコミによって喧伝された。こうして将門の首塚は日本人にはおなじみの祟りスポットとして認知されるようになったのである。

 POINT

・将門の首塚は、下手に触れば祟りをもたらす場所と怖れられている

・しかし祟りの噂は、関東大震災後の昭和期に始まる新しい怪談だ

・1970年代、再工事と大河ドラマの影響で首塚怪談が流行する