人間はなぜ「仮面」をかぶって生きてしまうのか…日本最高の哲学者が見つけた「意外すぎる答え」

AI要約

日本の哲学者たちが悩み続けてきたテーマや他者との関係、西田幾多郎の「他者」という概念について紹介されています。

『日本哲学入門』では日本人の哲学的考え方が紹介されており、他者との関係における主体性や内部性について考察されています。

西田幾多郎の「他者」という概念は、相手を人格として認め合い、呼びかけ合う関係を生むとされています。

人間はなぜ「仮面」をかぶって生きてしまうのか…日本最高の哲学者が見つけた「意外すぎる答え」

明治維新以降、日本の哲学者たちは悩み続けてきた。「言葉」や「身体」、「自然」、「社会・国家」とは何かを考え続けてきた。そんな先人たちの知的格闘の延長線上に、今日の私たちは立っている。『日本哲学入門』では、日本人が何を考えてきたのか、その本質を紹介している。

※本記事は藤田正勝『日本哲学入門』から抜粋、編集したものです。

私たちが「他者」に出会うとき、ある役割を担った、言いかえれば「仮面」をかぶった「他者」に出会っている。「他者」もまた「仮面」をかぶった「私」に出会っている。そこで「私」は、あるいは「他者」は、ほんとうに「他者」に出会っているのであろうか。ただその表面を見ているだけではないのだろうか。

本書『日本哲学入門』では、私たちが「他者」を前にして「他者」と言ったとき、そこですでに乗り越えられない壁が作りだされているのではないかと言った。

「他者」と言ったとき、私たちはすでに生きる主体としての他者からその内部性を奪い取ってしまっているのではないか。ただ外から見られた「他者」をそこに見ているだけではないのか。「他者」と言うことによって、私たちははじめからその内部性への道を閉ざしてしまっているのではないのか。「他者」の問題は、このような困難な問題をそのなかにはらんでいる。

もちろん、私たちは──たとえばフッサール(Edmund Husserl, 1859-1938)がしたように──類推を通して、あるいは感情移入を通して、そこに内部性をもった「他者」を想定し、そこに迫ることができると言うことができるかもしれない。しかしそこでもなお、私たちは自己の感情や思いを通してとらえられた「他者」、つまり自己の影を見ているだけではないのか。言わば擬似自己とでも言うべきものを立てただけではないのか──これらの問いが私たちに迫ってくる。

実際、私たちは私たちの側から見られた「他者」しか知ることができない。西田幾多郎は一九三二年に「私と汝」(『無の自覚的限定』所収)という論文を発表した。西田はそれまで「実在とは何か」という問題を「自己」の側から、自己の「自覚」として論じていたが、そこではじめて「他者」の問題に触れた。

そこで西田は次のように述べている。「私に対して汝と考えられるものは絶対の他と考えられるものでなければならない。物は尚我に於てあると考えることもできるが、汝は絶対に私から独立するもの、私の外にあるものでなければならない」。物に対しては、私たちは私たちのパースペクティヴのなかで位置を与え、意味を与えることができる。その意味で物は「我に於てある」と言うことができる。しかし汝はそのような我からの意味付与を拒否する。それを拒絶し、絶対に「独立するもの」として私たちの「外」にありつづける。そのような意味で「他者」は「絶対の他」である。

しかし西田は同時に、その絶対の他は、私を否定するものであるだけでなく、「自己自身を表現する」ものでもあると言う。「絶対の他」は──「絶対の汝」として──私に「呼びかける」ものでもある──そのように「汝」という言い方がされるときには、「他」は単なる「他」ではなく、私に対して自己を「表現する」もの、「呼びかける」ものであるという意味が込められている──。

つまり汝は、絶対の断絶のなかにありながら、私に対して、汝に応答するように、あるいは対話するように語りかける存在でもある。私は、このように私に対して呼びかけ、応答を求める汝を人格として認める。それに対して汝もまた私を人格として認める。つまり相手を人格として承認することが相互的に成立する。それを西田は「人格的行為の反響」ということばで言い表している。このように「他者」とのあいだに絶対的な断絶だけでなく、呼びかけあい、互いに人格として認めあう関係が生まれうると考えていたところに、西田の「他者」理解の特徴があると言うことができるであろう。

さらに連載記事〈日本でもっとも有名な哲学者はどんな答えに辿りついたのか…私たちの価値観を揺るがす「圧巻の視点」〉では、日本哲学のことをより深く知るための重要ポイントを紹介しています。