『ポニョ』『千と千尋』のプロデューサーが50年ぶりに告白する、「戦後ポルノの伝説」一条さゆり引退後の姿

AI要約

1960年代ストリップの世界で頂点に君臨した女性がいた。やさしさと厳しさを兼ねそろえ、昭和の男社会を狂気的に魅了した伝説のストリッパー、“一条さゆり”。

しかし栄華を極めたあと、生活保護を受ける。平凡な少女が送った波乱万丈な人生。どんな時代の流れがあったのか。

高裁判決から1年後、一条は大先輩のメリー松原と対談。対談を企画したのはスタジオジブリプロデューサーの鈴木敏夫。

195年正月特集「日本のおんな50年」を企画し、一条と松原の対談記事を執筆。昭和半世紀の女性たちの歴史を通して、時代の変遷を描く。

鈴木は一条を初めて日活ロマンポルノ映画で知り、2年後に一条と松原の対談を企画。対談場所は東京の料理店。

『ポニョ』『千と千尋』のプロデューサーが50年ぶりに告白する、「戦後ポルノの伝説」一条さゆり引退後の姿

1960年代ストリップの世界で頂点に君臨した女性がいた。やさしさと厳しさを兼ねそろえ、どこか不幸さを感じさせながらも昭和の男社会を狂気的に魅了した伝説のストリッパー、“一条さゆり”。しかし栄華を極めたあと、生活保護を受けるに至る。川口生まれの平凡な少女が送った波乱万丈な人生。その背後にはどんな時代の流れがあったのか。

「一条さゆり」という昭和が生んだ伝説の踊り子の生き様を記録した『踊る菩薩』(小倉孝保著)から、彼女の生涯と昭和の日本社会の“変化”を紐解いていく。

『踊る菩薩』連載第60回

『「みんなの前で裸見せるんとちゃうんか」…元「伝説のストリッパー」を魅了した男の「究極のナンパ術」』より続く

高裁判決から1年になる74年暮れ、一条はストリップの大先輩、メリー松原と会っている。最高裁の判断を待っている時期だった。

松原は日本で初めて、本格的に「動くストリッパー」となったとされる女性だ。『週刊アサヒ芸能』の誌上対談に一条と松原が応じたのだ。対談を企画し、記事を執筆したのはスタジオジブリのプロデューサー、鈴木敏夫である。

名古屋市出身の鈴木が慶應大学を出て大手出版社、徳間書店に入ったのはこの2年半前だった。一条が引退公演で逮捕される直前にあたる。鈴木はしばらくして、『アサヒ芸能』編集部に配属され、そこで担当したのが75年の正月特集「日本のおんな50年」だった。

昭和になって半世紀。特集は「男性につくしつづけてきた」女性たちの歴史を通して、時代の変遷を描く狙いがあった。鈴木が企画した記事の一つが伝説のストリッパー2人の対談だ。スタジオジブリで『千と千尋の神隠し』や『崖の上のポニョ』など多数の名作をプロデュースする鈴木が、若いころにこうした対談を企画していたのは興味深い。

私は2022年初め、東京・恵比寿の事務所に鈴木を訪ねた。彼は近くで買ったであろう、コーヒーを用意してくれていた。

「よく覚えているのは、一条さんの話にメリーさんが、ずいぶん驚いていたことですね」

長いソファにあぐらをかき、リラックスした様子である。声が大きく、張りがある。

「一条さんとの出会いは映画なんですよ」

彼は就職した72年秋、新橋の映画館で日活ロマンポルノ『一条さゆり 濡れた欲情』を見た。公然わいせつ罪で起訴された一条が、裁判中に出演した映画と知り、鈴木は興味を持っていた。

「ポルノを売りにしていたんですが、ちゃんとした映画でびっくりした。お芝居とドキュメンタリーをドッキングさせた構成で、映像が実に生々しかった印象があります」

この映画が頭にあったのだろう。鈴木は2年後、雑誌の正月特集に彼女を登場させようと思った。

対談場所は東京の料理店だ。一条と松原はそれぞれ1人でやってきた。一条は長く伸びた髪を後ろに垂らし、黒いセーターを身に着け、松原はパーマをかけた髪で黒いシャツを着ていた。大衆的な店で、壁には色あせた日本地図が貼ってある。