【太平洋戦争、地獄の戦場】戦友の死屍を乗り越え、遺体には銀蝿、蛆虫……ネグロス島西部の戦い、ある兵士の手記

AI要約

YM氏がフィリピンのネグロス島での戦跡を残した手記に基づいて、当時の青年の軌跡を辿る旅。

YM氏は茨城県庶務係から第76大隊に召集され、フィリピンでの戦闘に参加。バコロド、シライ、サライ、サラビアの各地で戦闘を経験。

日本軍の航空要塞への信念と実際の状況の乖離、米軍の上陸による戦局の変化など、YM氏の手記に描かれた戦争の実像。

(2024.3.13~5.1 50日間 総費用23万8000円〈航空券含む〉)

『フィリピン島巡り放浪旅』の出発直前に懐かしい御仁から突然のメールを受信した。商社勤務していた約35年前のイラン駐在時代に同時期に駐在していたYS氏からであった。

 YS氏とメール交信するなかでYS氏のご尊父(YM氏)がフィリピンのネグロス島に従軍していたことが判明した。旅の途中ネグロス島で故YM氏の戦跡をYM氏が残した手記に基づいて辿ってみることにした。

 YM氏が残した手記から当時の地方の一青年の軌跡を追ってみたい。YM氏の実家であるY家は当時茨城県那珂郡(現 常陸大宮市)の庄屋だった。

 17年3月太田中学校卒業、同年4月茨城県庁奉職、地方課配属。昭和18年4月那珂地方事務所庶務係兼学事室勤務を拝命。主事補に昇格。事務所近くの旅館に下宿して通勤。学生時代にはテニス部に励む、平穏で勤勉な青年の姿が思い浮かぶ。

 昭和19年3月召集令状を受けて応招。昭和19年5月野戦高射砲第76大隊第三中隊に編入。7月3日フィリピン派遣のため門司港出航。バシー海峡に米軍潜水艦出没のため7月7日から台湾基隆港にて待機。7月9日輸送船団10隻、掃海艇2隻にてマニラ港へ向け出航。途中で輸送船2隻が米軍潜水艦により撃沈。

(家族に語った話:撃沈された船は海中に沈む時に渦となって周囲を飲み込んでいく。いち早く海に飛び込み、沈む船から離れるしかない。自分の船が攻撃されたと勘違いした仲間は、海に飛び込み帰らぬ人となっていった。自分は「我が艦にあらず!」との声を冷静に聞き、命をつないだ)

 7月17日~11月17日。マニラ市内の飛行場や港などで防空、対空戦闘。

 11月18日。YM氏所属の第三中隊(藤田中隊)は転進のためマニラ港から出航。11月21日ネグロス島のバコロドに夜間上陸。(筆者注)バコロドは現在人口約56万人の大都市である。米軍の爆撃で桟橋が破損しており工兵隊の支援で未明までなんとか上陸完了。

 昭和19年11月22日~昭和20年3月。バコロド、シライ、サライ、サラビアの各飛行場の防空、対空戦闘、陣地構築。(筆者注)シライはバコロド市街の北、サライはバコロド市街の東に現在も地名として残る。山本七平氏の『一下級将校の見た帝国陸軍』では飛行場の実態が紹介されている:ネグロス島は日本軍が航空要塞を構築しており、米軍が手痛い損害を被るだろうと日本兵は信じていたが、実際には「毎日の爆撃で穴だらけになった飛行場群に焼け残りの飛行機が若干藪影に隠されているだけ」であった。

 3月12日米軍バゴロドに上陸。