バブル崩壊が起こした悲劇…東急が手放さなければならなかった「ある施設」の悲惨な結末

AI要約

ニセコが世界リゾート地となった経緯を解説。

東急グループがニセコに進出し、不動産開発を行った経緯。

東急不動産がニセコエリアの一体経営に注力し、事業を再編した過程。

バブル崩壊が起こした悲劇…東急が手放さなければならなかった「ある施設」の悲惨な結末

今や世界中から富裕層がこぞって訪れる冬の高級リゾート地となった北海道ニセコ。どうやってニセコはインバウンドをものにしたのか。海外の富裕層を取り込む外国資本の戦略、日本の観光に足りていないものとは何なのか。ニセコの成功の背景を、リゾート地・富裕層ビジネス・不動産投資の知見をもつ筆者が、これらの謎をひも解く。

*『なぜニセコだけが世界リゾートになったのか』(高橋克英著)より抜粋してお届けする。

『なぜニセコだけが世界リゾートになったのか』連載第21回

『売上高は約1兆円…「ヒカリエ」や「マークシティ」を所有し、渋谷を牛耳る「あの企業」とニセコの意外な関係』より続く

東京を拠点とする東急がなぜニセコにも一大拠点をもっていたのだろうか。

1961年に、日東商船(現商船三井)傘下に「ニセコ高原観光」が設立され、「ニセコひらふスキー場」がオープンしている。1985年、東急不動産はニセコ高原観光を買収し、ニセコひらふスキー場とニセコワイススキー場を経営することとなり、ニセコ進出の橋頭堡とした。当時はバブル経済の真っただ中で、日本中でリゾート開発が続いており、東急グループも西武グループなどと激しい競争をしながら全国各地で開発を進めていたのだ。1992年には花園地区に「ニセコ東急ゴルフコース」と「ニセコひらふ花園スキー場」が開業した。1994年からは花園地区の大型別荘地「ノースヒルズ」の販売を開始している。

しかし、バブル崩壊や不良債権問題などにより、東急グループの業績も悪化し、3兆円以上の有利子負債を抱える事態となり、グループ再編とリストラの一環として、各種事業を整理、統廃合した。地価上昇を前提とした全国拡大路線を改め、原則的に東急沿線や都市部に経営資源を集中させることとし、現在の東急グループの方針もこの延長線上にある。

2004年、東急不動産は、自ら開発してきたニセコ花園スキー場を、ニセコの魅力に魅了されたオーストラリア人を主とする投資家グループが出資し設立した「日本ハーモニー・リゾート」に売却した。翌2005年には、日本ハーモニー・リゾートがニセコ東急ゴルフコースを買収している。一方で、同じ2004年に、東急不動産はサンモリッツリフトがひらふ地区に持つスキーコースとホテルニセコアルペンを買収し、ニセコグラン・ヒラフスキー場とし、エリアの一体経営ができるようになった。

こうして整理してみると、東急不動産グループでは、手塩にかけて育てた花園地区を売却することで、ひらふ地区に経営資源を集中させたということができよう。いずれにせよ、ニセコグラン・ヒラフスキー場などは東急不動産が運営することとなり、一方で、花園は手放すこととなった。

『「日本のスキー場はスバラシイ…!」オーストラリア人が大絶賛する「意外な場所」とその納得の理由』へ続く

【ニセコの最新の状況についてはこちらの記事もご参考ください】