「総理」「総裁」「山口組組長」...数多の権力者と会ってきた文春元編集長が語る、政治ジャーナリズムに「欠かせない」もの

AI要約

政治ジャーナリズムの難しさ、権力との距離、読者との距離について語られている。

政治記者の自問自答、本質的な理解の必要性、厳しい言葉の批判と批判の剣の違いについて考察されている。

梶山静六、細川護熙、安倍晋三、菅義偉との接触、政治家からの学び、政治家との信頼関係について述べられている。

「総理」「総裁」「山口組組長」...数多の権力者と会ってきた文春元編集長が語る、政治ジャーナリズムに「欠かせない」もの

権力の監視はメディアの使命なので「御用記者」に成り下がってはいけない。しかし、政治家にただ厳しい言葉を重ねても、それは真の「批判の剣」ではない。そんなジレンマを抱えながら、安倍晋三、菅義偉、梶山静六、細川護熙をはじめとする大物政治家たちから直接「政治」を学び、彼らの本質と向き合った「文春」の元編集長がいた。

数々のスクープをものにした著者がキャリアを赤裸々に語りつくした『文藝春秋と政権構想』(鈴木洋嗣著)より抜粋して、政権幹部と語り合った「密室」の内側をお届けしよう。

「文藝春秋と政権構想」連載第6回

『「臓器を抉って高く掲げる」仕事…文春を「国のタカラ」とまで褒めちぎる司馬遼太郎が語った「文藝春秋」の“神髄”』より続く

とくに政治ジャーナリズムの難しさは、当事者が権力ある側の常として最大限、批判のターゲットとなることだ。政治家は記者たちに対して身構え、本当のこと、本音をなかなか明かさない。逆に懐に飛び込むことができても特定の政治家ベッタリでは「御用記者」と言われて読者、国民の信用を失う。権力との距離、読者との距離。双方のどこに身を置くべきか――。おそらく多くの政治記者は自問自答していることだろう。

「反権力」「権力のチェック機能」がメディアの使命の根幹であることに異論はない。ただ、批判ばかり、人を貶めるための言説に少々息苦しさを覚える。批判は自由。しかし、取材対象である政治家に対して、本質的な理解は欠かせない。

その本質抜きに言葉の厳しさを重ねても、逆に骨を断つような“批判の剣”を振るうことはできないのではないか。同時に「そんなものはジャーナリズムじゃない」とする立場もよくわかるし、その批判も甘んじて受けたいと思う。

長いあいだ、接触することすら困難であった梶山静六と、ある程度打ち解けて話ができる関係となり、議員会館で政策論議になったことがあった。意見は激しく対立した。若気の至りであったと思う。二人きりでやり合ったあとに、

「別に先生のために政策提言をやっているわけじゃない。お国のためにやってるんですよ」

と言い返した。

そのとき、梶山は「ほおッ」という表情になった気がした。推測にはなるが、そんな偉そうな台詞を口走って以降、梶山はわたしを本当に信用してくれたように感じる。

そして、雑誌編集者としてのわたしを鍛えてくれたのは梶山たち政治家だったと思う。この本に掲げた四人の政治家は、それぞれ別の角度から影響を受けたように思う。順不同となって恐縮だが、細川護熙には「政治のダイナミズム」を、梶山静六には「政治哲学の王道」と「政策立案の基礎」を教わった(何より本物の政治家に会えたはじめての経験だった)。

安倍晋三には、この国に脈々と受け継がれる長州閥の「政治の知恵」を、菅義偉には、文字通り「政治の修羅場」と「改革とは何か」を間近で見せてもらったように思う。

その根底には、20代で週刊誌記者として数々の現場を踏ませてもらった体験が大きい。